ひとかたの鬼
能面のように永遠を得た美しい顔を彩り豊かな菊で飾る、それが菊人形師だった。
菊は基本赤、白、黄色だが、個体によって紫がかっていたりするし、どれくらい白いか、黄色にも種類があり、菊を国花とするこの国では菊人形という文化がわびさびを持つものとして親しまれるのも必然であったと言えよう。
だが、文化というものは、技術というものは、受け継ぎ、次の世代へと繋がなければ、いつかは途絶えてしまうものである。それは菊人形師も例外ではなかった。
まあ、菊人形師が廃れたのは、「後継者がいない」というだけが理由ではないが。
木口邸。菊人形師として名を馳せた名門の家だ。今も菊人形を毎年菊の節に作っている。
「なんだこの枯れ果てた菊は!! こんなものを美しいと、誰が思うものか!!」
「空也さま、申し訳ございません。何故か家に持ち帰るとこのように……」
「五月蝿い!!」
着物の遣いに老人が怒鳴る。その姿は荘厳さを纏い、木口家の当主としての威厳に満ちていた。木口空也。隠居こそしたものの、この木口家の菊人形師の技術を絶やさないために、日々邁進している。
だが、菊人形師業界には、今、根本的な問題があった。
それは、素材となる菊が手に入らないということ。菊人形というからには、菊で着飾らねば意味がない。だというのに、菊が手に入らないのだ。
どこに行っても上等の菊がない。持ち帰ると枯れ枝のような醜い茶色に濁り、そのまま花としての生を終える。
現に、空也に言われて買ってきた菊は遣いの手の中で枯れている。
「まさか鬼町の花屋で買っているんじゃなかろうな?」
「それは以前空也さまより固く禁じられました故、鬼町には行っておりません」
鬼町。それは町の名前ではなく、見事な菊で有名な老舗の花屋である。その歴史はどれくらい続いているのか不明で、木口一門はその始まりの江戸後期より、鬼町菊屋を贔屓にしていた。とても見事な菊を毎年菊の節に提供してくれるのだ。それはもう当時の木口一門の者は気合いを入れて菊人形を仕立て上げた。
が、今は昔。空也の代から、鬼町を利用することはなくなった。現実味のない話になるが、鬼町の花が「呪われている」からだ。
空也が若い頃は、それはもう麗しく瑞々しい菊の数々があり、空也の菊人形もそれなりの評判を得ていた。
しかし、空也が年を取り、次の代へと席を譲った途端、花は木口家に来るたびに色を失うようになった。それから何度買い直してもそうなるものだから、空也は鬼町が何か得体の知れぬ厄災を抱えたのだ、と思い、鬼町との交流を経った。
それから少しの間は別の店でまともな菊を買うことはできたが、それも束の間のことで、すぐ、どの花も枯れるようになった。いや、どの花も、というのは語弊がある。菊人形に使うための菊のみ、枯れるのだ。呪われたとも思うだろう。
空也は薄々、気づいていた。鬼町の呪いが木口家にも降りかかったのだ、と。
鬼町と長く関わりを持ってしまった。だから呪いが移って、菊が全部枯れるようになったのだ、と空也は考えていた。しかし、それを話せずにいる。
誰が今時呪いだ何だを信じるというのだろう。それを空也が言ったところで、誰が信じるというのだろう。空也自身、信じたくないし、信じられずにいるのに。
それに、空也は知っているのだ。
鬼町が空也の菊人形に鬼の角をつけたから、この呪いは始まった、と。
それは空也が全盛期だった頃の話だ。
空也の菊人形は見事で、メディアに取り上げられるのはざらだった。同時に菊を提供している鬼町菊屋も繁盛しており、空也の馴染みである店主の紅葉も美人として評判だった。
どうしてあんなことになってしまったのだろうとつくづく思う。
「ねえ、空也の人形を一体、アタシにくれんかい?」
「はあ? なんでまた」
すると紅葉は怒った調子で空也に言葉を叩きつけた。
「アンタねえ、前から言っとるやろ。アタシはアンタにほの字なんや。でもアンタは別な人と所帯を持った。それはアンタが選んだ道や。文句は言いひん。アンタをすっぱり、諦めたいのさ。そのためにアンタが作った人形が欲しい言うとるの」
「はあ……」
紅葉は美人だ。それは空也が幼い頃からそうだ。少しずつ老いを感じる年齢になってきたと感じるのに、同い年のはずの紅葉は一欠片もそんな気配を感じさせない。
紅葉が空也を好いているのは、いつの頃からだったか。散々言われてきたので、もう随分昔のことのような気がする。けれど、空也が嫁を見つけ、婚姻したとき、紅葉は何も言わなかった。女心は空也にはわからないが、紅葉なりに我慢して折衷していたのだろう。その案が人形を傍に置く、ということなのかもしれない。
空也は当時の当主だった父にそのことを話した。空也の父も母も、紅葉のことはよく思っていたため、というかむしろ紅葉を嫁にしなかった空也の神経を疑うくらいのものだったので、紅葉の少しの我が儘くらい聞き入れておやんなさい、と提案を承諾した。
「ほら、好きなの選べよ」
「おおきになあ」
「しかし、菊人形なんか持ち帰っても、菊の節を過ぎれば枯れちまうぞ?」
「枯れるからいいんよ」
紅葉はくすくす笑った。
「枯れたら、アンタのこと、忘れられるじゃないか。形が残らないんだから」
なるほど、と思ったが、女の考えることはよくわからない。
けれど、紅葉の言う通りなのだろう、とそのまま人形を一体、やったのが間違いだった。
女とは狡猾な生き物だ。何故それに気づかなかったのだろう。何故本当に枯らすと思ったのだろう。そんなの、自分の思い込みでしかないのに。
鬼町は花屋だが、菊屋とも呼ばれ、菊を生けることに特化している。
今や菊は秋のみの品ではない。年がら年中、仏花として求められる花だ。菊の専門家といっても過言じゃない鬼町がどうして菊の生かし方を知らないと言えるだろう。
だが、紅葉の菊人形の生かし方は常軌を逸していた。
ある日、紅葉に呼び出されて行った鬼町の店で、紅葉にやった空也の菊人形は、動いていた。
立って、歩いて、それがさも当たり前であるかのように。
その頭には、角が一本ついていた。菊人形元来の美しさを損なわない程度の大きさの角がまるで、それが鬼であるかのように。
「おや、アンタ、どうしたんだい?」
「紅葉よ、それはどういうことだ?」
それ、と空也が示したのは動いて回る菊人形だった。
紅葉はうっそりと笑む。
「ふふふ、ええやろ? アンタの傑作はああして生き続ける。アタシの傍らでな」
「どう考えても邪法だろうに」
「だからなんだってんだい?」
暗い洞のような黒い黒い紅葉の目が、まじまじと空也を見つめた。
「邪法だろうがなんだろうが、アタシは空也といたかったんよ」
「そういうのは身を滅ぼすぞ」
「さぁて、滅ぶのはどっちかねえ」
不敵に笑った紅葉の顔が枯れた菊を見るたびにちらつく。
結論から言うと、紅葉は自分に見向きもしなかった空也を恨んでいたのだ。表では諦めるとか言って、その実全然諦めていなかった。
……いや、諦めからきていたのかもしれない。鬼だろうがなんだろうが、紅葉は形が欲しかったのだろう。それが回り回って空也への呪いになった。
紅葉はまだまだ現役で花屋を営んでいる。あの頃から一ミリも変わらない美貌で、他からは評判だ。
空也は自分の手を見る。菊に触れるために、今も手入れを怠っていない手。けれど確かに老いた手をしている。
このまま、あの人形鬼と紅葉を放っておいていいのだろうか。
菊が手に入らなければ、木口一門は廃れ、やがて菊人形師の歴史から名前が消えるであろう。自分が紅葉なんぞに人形を一体やったばっかりに。
「……気は向かんが、儂が直談判に行くか」
「え、空也さま、お出かけになるのですか?」
「付き人はいらん。話がややこしくなるからな」
「ですが……」
「いらん」
遣いを押しきって出ていく。当主に担ぎ上げられてから、あまり自分で出かけることはなかった。後継の指導に当たっていたからだ。紅葉のことなぞ、忘れた方がいい、そう思っていたから。
外に出るのは久しぶりだ。とても忌々しい日の照りつけに、空也は目を細めた。
街は様相を変えていたが、空也とて箱入りだったわけではないし、鬼町菊屋は今も変わらず存在している。
黄色と白の菊の鮮やかさが眩しい。老舗らしい古風な書体で「鬼町菊屋」と看板に書かれていた。こういうところは昔と変わらず、鬼がいるなどと誰が思うことだろうか。
空也は迷わず店の中に入る。年中飾られている風鈴がチリンチリン、と入店者を知らせた。
「あらあら、誰かと思えば」
店の奥から、黒地に大きな花の描かれた着物を着た女性がぬばたまの髪を揺らして出てきた。
「懐かしい顔ですこと」
「懐かしいと言われるほど、変わりなかったわけではないがな。まさかお前は狐でも化けたのかというくらい若返りおってからに……」
「あらあら、女を化生扱いとはあきまへんなぁ。まあ、アタシは大して変わりないからええんけど」
ほほ、と上品に口元に手を当てて笑う紅葉。その言葉は暗に鬼の恩恵を受けていることを示していた。
空也はぎり、と睨み付ける。
「お前は儂を蹴落とそうとしているのだろう?」
「何を言うか。アタシはアンタが好きなんよ。その他はどうでもいい。けど、愉快な話じゃないか」
「何のことだ?」
ふっと可笑しそうに紅葉が笑う。
「アンタは知ってるんだろう? アタシが鬼を飼ってるって」
ぴし、と緊張感が走った。いきなりの本題だ。緊張せずにはいられない。
鬼を「飼っている」と言ったか、この女。
けたけたと紅葉は笑う。
「鬼の恩恵なくして鬼町菊屋の花はないさ。鬼町の名に偽りなし、というわけだ」
「お前に始まったことじゃないというのか?」
「左様」
立ち話もなんだしお上がりよ、と紅葉が店の奥へ空也を招いた。
木口邸には及ばないが一般家庭よりは立派な和室に通される。紅葉はちゃきちゃきと茶器の準備をし、湯呑みに茶を注いだ。
自分の分も用意したところで、紅葉はふう、と一息つく。
「さぁて、何を聞く?」
「お前、先に愉快と言ったのは何だ?」
「ああ、あれな」
ちょんちょん、と空也の肩を小突いてにやにやしながら言う。
「空也という名前は仏教の上人の名前だろう? そんな名前の人物が作った人形が鬼の依り代になってんだ。これが愉快でなくて何かね?」
空也はうむ、と唸った。上手いことを言うものだ。そういえば学徒の折、そんなことを習った気がしなくもない。
「何故角なぞつけた?」
「兼ねてよりの夢だったのさ。徳の高そうな人形を鬼の器とするのが」
「そういえば、鬼町の名に偽りなし、とか言っていたな。鬼町菊屋はいつも鬼の力を借りているのか」
「言うまでもない」
鬼町が鬼町という名を名乗るようになったきっかけは、鬼へ生け贄に捧げられた一族が始まりだったという。
「鬼は伝承と違うて、人を食わなんだ。それならアタシらにとって、神や仏と変わらぬよ」
綺麗な花を食う鬼らしい。だから鬼町は花屋を始めたと紅葉は語った。
「鬼が食うから、持ち帰る頃に枯れるのか」
「ははは、迷惑千万だろうて」
「わかっていてやっているのか」
からからと笑う紅葉の様子に空也は呆れる。
「アタシはただ、アンタに来てほしかっただけなんよ」
「はあ」
遠い目をする紅葉に、空也は生返事を返した。
「アンタの家に送る菊を枯らし続ければ、やがて困ってアンタが出てくるだろうと。まあ、時間はかかったが」
「迷惑なことを」
「アタシが人間であるうちに来てくれやしないから」
「……なんだって?」
聞き捨てならない言葉があった。
確かに、紅葉の変わりなさは化生と言われても仕方がない。もう古希は過ぎているだろうに、還暦に辿り着いたかさえ疑いのあるような容姿だ。最近は化粧品だかなんだかが優れていて、年齢を感じさせない女性もいると聞くが、紅葉のそれはそういう程度の話ではないのだ。
「鬼町はねえ、鬼に食われない代わりに、鬼になるんよ。アンタの人形を受け取ったのが、アタシの人間としての最期さ。今アンタの前でくっちゃべってるアタシはアタシの残留思念みたいなもんさ。アタシは鬼になって……あの菊人形に魂を移した」
「な、何を言っているんだ?」
わけがわからなかった。
菊人形に魂を? そもそも鬼になるとは?
当然ながら、空也は混乱した。それを諭すように紅葉は説明する。
「鬼町は生け贄の一族だって話しただろ。元々人から疎まれていたんだ。嫁の貰い手も行き手もないのさ。だから鬼にすがったんだ」
空也はゆっくりとその言葉を咀嚼する。嫁の貰い手も行き手もない。それでは血を繋げない。……だから鬼に頼った、と。
では、嫁の貰い手がいたら……
「おい、もしかしてだが……」
「過ぎたことは言うんじゃないよ」
ちょん、と空也の唇に触れた紅葉の人差し指はひどく冷たいような気がした。
「アタシらの一族にゃ、天国も地獄もなかったって話さ」
アタシはたった一つだけ、願った、と紅葉は言った。
何を願ったかは、なんとなく空也にもわかった。それをわかった上でこんなことしか言えない自分を鼻で笑いたい気分だった。
「ならもう、花を枯らすんじゃない」
「どうしようかなぁ」
「おい」
「ふふふ、冗談さ。奥座敷にアンタからもらった人形が眠ってる。あの角を取れば、全部普通に戻るさ」
「そうか」
空也はさっさと奥座敷に向かった。
何十年経ったともしれないのに、その菊人形は艶やかな菊に彩られていた。それは、ただ事ではなかった。
他の花の生気を吸って生きたのだろう。まさしく鬼の所業だ。もうこれで終わる。
空也が角に手をかければ、それはぱきりと普通の花のようにあっさりと手折ることができた。
見る間に、その全身を覆っていた菊が褪せ、その命を散らしていった。
鬼の命をこうもあっさり閉ざすなど、空也という名も何かの因果か。
戻れば紅葉もおらず、ありがとうございました、と見たこともない幼子が、丁寧に頭を下げてきた。
木口一門はこれで安泰だろう。