逆らえない流れにのまれる
今日も、四宮美羽の勤務は荒れていた。
「四宮さーん! 416号室の今田さん、緊急CT今下りてきてってー!」
「ちょ、ちょっと待ってください! 高島さんのおむつ替えてるので、酸素だけ用意してもらっていいですか!?」
「あ、四宮さん、ここにいた。オペ室から朝一で出棟した佐々木さんのお迎え呼ばれましたよ」
「うわ、マジか。今CTも呼ばれ——」
「四宮さん、420の土岐さんが痛み止めもらってないって言うんだけど……」
「10分前に飲んでもらったんですけど……ちょっとここ終わったら顔見てきます!」
午前中は落ち着いていたものの、早めの昼休憩を取った後からナースステーションに戻る暇がない。申し送りのときに、優しいリーダー看護師からこの前の夜勤大変だったんでしょ、今日はちょっと患者さんも減ってるし軽めでついてるからと言われたと思ったのだが、気のせいだったのだろうか。この忙しなさと諸々の重複具合は、どう考えても美羽基準の通常運転である。
交換済みのおむつを袋に入れてポリバケツに廃棄しながら、CTの送りと手術の迎えをどうすべきかと考えていた美羽だが、ナースステーションの裏から出てきた人物に名前を呼ばれて飛び上がった。
「田上<たのうえ>師長! すみません、今CTとオペ迎えに呼ばれてて……」
「ああ、そうだったの? それじゃあそれが終わってからでいいわ。リーダーには私からお願いしておくからちょっと時間作ってくれる?」
「分かりました!」
いつも変わらず温和な笑みを浮かべる師長にぺこりと頭を下げると、まだほとんど未記入の今日分の記録を思ってため息を吐きそうになりながら、まずはCTの送りを代わってくれる人を探さなければとPHSでリーダーの番号を呼び出すことにしたのだった。
結局、美羽が時間を作れたのは、夜勤看護師への申し送りを終えて残った業務を終えた後であった。ほぼ真っ白なまま残ってしまっている午後分の記録類は一旦忘れることにして、待たせに待たせた田上師長に頭を下げる。
「本当にすみません! お待たせしてしまって……!」
「午後から大変だったから、仕方ないわね。実は、四宮さんにお客様が来られてるのよ」
「お客様……、ですか?」
勤務先に訪ねてくる客など心当たりがない美羽は全力で首を捻ったが、その直後にその“お客様”を3時間近く待たせてしまったことになる事実にさあっと血の気が引いた。
「う、うわ、すごく申し訳ないことを……」
普通の客なら、怒って帰っているところである。しかし、師長は緩やかに頭を振ると、大丈夫と微笑んだ。
「7月初めの木曜日なんだけどね、四宮さん夜勤明けだったでしょ? 覚えてる?」
そう言われた美羽は、少し考えてからぽんと手を打った。7月初めの木曜日と言えば、あの念願の舞台を観に行った日である。曲も舞台装置も衣裳も何もかも素晴らしくて大満足し、パンフレットと共にCDとキーチャームを購入してしまった。むしろ、それだけで済んでよかった。視界にちらちら入っていた他のグッズにも実に心惹かれたが、今年の冬は話題作が目白押しなのである。散財は計画的に。
「はい、都内へ出掛けていました」
「そこで、心停止した方の救助に関わったんですって?」
何の気もなく頷いた美羽に向かって放たれた問いかけに、彼女は引き攣る顔の筋肉を必死に笑顔の形に整えた。なぜそれを師長が知っているのか。
「う……、ええ、まぁ、気付いちゃったので……」
視線を斜めに逸らしながら、曖昧に頷く。
「その方がね、どうしてもお礼がしたいと仰って今日看護部にいらしているの」
「うげ」
もはや、取り繕えなかった。思わず飛び出した呻き声もどうか寛大な心でお許しいただきたい。
やはりあの時、秘書だと名乗った男に懇願され縋りつかれて名前を伝えてきたのは失敗だったらしい。しかし、このままただ返しては社長に叱られてしまう、命の恩人にきっとお礼を言いたいと言うはずだ、と言い募られ、根負けしたのである。名前から、まさか職場まで探し当てられるなんて誰が予想しただろうか。
「お元気になられたのは嬉しいのですが、私お礼とかは……」
ついつい後退りながら逃げの一手に出ようとした美羽だが、師長の笑みが一段と深まったために足を止めざるを得なかった。何か、とんでもないものに巻き込まれかけているような気がする。
「それがね、四宮さん」
「う……、はい」
「その方、かなり大手の芸能事務所の社長さんらしくて、理事長や院長たちが大慌てで」
もう、嫌な予感しかしないが、ここで逃げても仕方がないこともちゃんと分かっている美羽であった。無の境地で、これから起こる厄介事を乗り切るしかない。
今までの経験から、予想外の事態への適応力は人一倍持っている彼女である。ついでに、どのタイミングで諦めるべきかも、きちんと心得ていた。
「………何が何でも、一度お会いしないといけないわけですね……」
がっくり肩を落としながら、美羽は心の中で泣いた。
————こんなことのために、あの日フルーツタルトを犠牲にしたわけじゃないのに。
新卒で入職してから5年間、一度も近付いたことすらない院長室とプレートのかかった重厚な扉の前で、美羽は申し訳程度にツーピースタイプの白衣の裾を払ってみた。残念ながら、着替える時間は与えられなかったのである。そもそも、現在病院の敷地内にある寮住まいである彼女は、自室から直接白衣で出勤しているため、着替えるなら自室に帰る必要がある。かれこれ3時間もお待たせしている客人を考えれば、そんな時間がもらえる訳がなかった。
田上師長がこんこんとノックするのを見ながら、大人しく姿勢を正す。
「失礼いたします。四宮をお連れしました」
中から入室の許可を出したのは、理事長だろうか。
一看護師がそんな上層部の人間と話すことなどないので、声だけでは判断ができない。ともかく、ささっと挨拶だけして帰らせてもらおうと決意し、師長に続いて入室する。
室内のコの字に配置されたソファには、病院のホームページくらいでしか見たことのない理事長と院長、そしてスーツ姿の男性二人が座っていた。2か月も前のことなのでやや記憶が曖昧だが、何となく見覚えがある。やや年嵩の方が、あの時倒れた男性だろう。
失礼にならないようにと頭を下げかけた美羽だが、その男が一瞬にして満面の笑みを浮かべたものだから礼儀など頭からすっぽ抜けてしまった。見た目の年齢の割には素早い動作で立ち上がり、あっという間に近づいてくる。
「ああ、君が私の恩人だね! 本当にありがとう!」
避ける間もなかった。
瞬間移動かと思える速度で眼前に迫った元患者は、がっしりと美羽の両手を握って涙ぐんでいる。
「突然お邪魔してしまって驚かせてしまったね。でも、どうしても直接お礼をさせてほしくて、理事長さんたちに無理を通していただいたんだよ」
「……いえ、本当に元気になられてよかったです。それと、お礼でしたら処置を手伝っていただいた方たちに伝えて差し上げてください。私は、大したことはしていませんので——」
「そんなことはございません!」
やや後退りながら早々と辞去のタイミングを伺っていた美羽だったが、いつの間にやら立ち上がっていたもう一人の男がずいっと顔を近づけてきた。ついついのけぞってしまったのは、仕方ないと言える。
「あの時、狼狽えるばかりだった私たちでは、決してあのような的確な対応はできませんでした。私からも、お礼を言わせてください。本当にありがとうございました」
そのまま流れるようにソファに誘導され、唖然としている間に目の前に名刺を差し出されていた。高級そうなテーブルの上には、これまた高級そうなカップが並べられている。いつの間にか師長は退室しているし、職場にいるはずなのに美羽は凄まじい場違い感を感じていた。
「改めまして、私はオリエンタル・スターの高円京〈たかまどきょう〉です。こちらは秘書で、伊神守〈いがみまもる〉。この度は、四宮さんに大変お世話になりまして心よりお礼を申し上げます」
少々落ち着いたらしい元患者————高円京が、わざわざソファから腰を上げて深々と頭を下げる。ただの看護師であり、社長などと名のつく人物と関わったことも関わる予定もなかった一般人の美羽は、仰天した。慌てて立ち上がろうとしたがソファが思った以上にふかふかでもたついているうちに、当の高円からにこやかに制止される。
「私がこうして今日生きていられるのは、あの日四宮さんが我が社の近くにいてくださったお陰だよ。伊神が懇願してやっと名前だけ教えてくれた君はきっと遠慮するとは思ったけれど、どうか何かお礼をさせてほしい」
「いえいえいえいえいえ、本当にお気になさらず!」
お行儀良くなどと言っている場合ではない。美羽は、必死にぶんぶん首を振った。両手も振った。社長からのお礼など、とんでもない。たまたまそこを通りがかった美羽が、たまたま看護師で、たまたま病人への対処ができて、たまたまその患者が助かったというだけなのである。
「しかし、恩を受けた人に何も返すことができないのは本当に心苦しいものなんだよ」
どうか受け取っておくれと頭を下げられ、ちらりと横目で見た理事長と院長の無言の圧力に押され、ただの看護師である美羽はしおしおと頷く他なかった。おかしい。この社長は礼を述べに来たのではなかったのか。これでは、押し売りである。しかも、美羽が頷いた途端、笑顔を弾けさせた高円は、上機嫌に一通の封筒を差し出してきたではないか。
「えーと、これは……」
「12月の末に、私の快気祝いと忘年会を兼ねてパーティーを開くのだけどね、ぜひ四宮さんにもおいでいただけないかと」
社長の開くパーティーというとんでもない単語に引き攣りそうな顔を看護師の矜持にかけて穏やかに保ちながら、どうぞと促されるままに封を切れば、確かに封筒の中にはパーティーの招待状が入っていた。
「堅苦しいものではなく、社内の人間と一部の関係者が来るだけだよ。だから、ぜひ君を招待させてくれないだろうか」
実に熱心に頼み込まれたが、美羽は混乱の最中にあっても招待状に記載されていた会場となるホテルの名前を辛うじて読み取っていた。知らない人の方が少ないような、都内の超有名な高級ホテルである。方々からの圧に押されながらも、何とか辞退の言葉を告げようとした。
「い、いえ……こんな盛大なパーティー、気後れしてしまいますし、着ていけるような服も——」
「もちろん、こちらがお願いして招待するのだから送迎も衣装も用意させてもらうよ。だから、心配しなくても大丈夫」
にこにことごり押ししてくる高円は、実に用意周到だった。美羽が断る理由にできそうなものについては、すでに潰してきてあるらしい。しかし、彼女は看護師である。とっておきの切り札があると信じていた。
「えーと、そんなにお手数をかける訳にもいきませんし、それにパーティーの日付を拝見しますと12月25日ですので、丁度スタッフの休み希望が混み合う時期なんです。できればお子さんのいる先輩方にお休みを取っていただきたいと……」
何せ、自分は未婚な上、現在進行形でお付き合いをしている人もいない。年末年始やクリスマスに特別な予定があるわけもなく、今後も入る見込みはなかった。であれば、その時期はせっせと働き、他の時期にまとめて冬休みをもらってどこかに旅行へ行ったり、連日観劇三昧したりする方がよっぽど有意義である。実家はやや遠いため連休がないと帰省は難しいが、美羽の両親は共に現役で働いていてカレンダーとは異なるスケジュールで帰っても、正直あまり歓迎されない。それどころか、買い物や家事などでこき使われるのが目に見えていた。
そんな彼女の思惑をあっさり吹き飛ばしたのは、何と理事長と院長の二人だった。
「四宮さん、田上師長には私たちからも伝えておくから、ぜひ出席させていただいたらどうかな」
「そうだなぁ、高円社長もこう仰ってくださっていることだし。四宮さんがとても熱心に看護師として働いてくれてることは田上師長からよく聞かせてもらってるからなぁ。こんな機会はなかなかだろう?」
とんでもないところで上層部の権力を振るおうとしている二人に、平々凡々な看護師である美羽は思わず言葉に詰まった。しかし、一見穏やかに諭しているようで、理事長も院長も目が怖い。なぜか、何が何でも受けろと無言の命令が下されているようである。
美羽は、そーっと正面に座るいまだ笑顔を湛えたままの高円といやに真剣な眼差しの伊神へと視線を滑らせ、もう一度一見穏やかながらその実、凄まじい眼力で圧力をかけてくる器用な理事長と院長を見た。どう考えても、孤立無援である。四面楚歌である。自分の職場なのに。
————本当に、何がどうしてこうなってしまったのか。
「………ご招待、ありがとうございます。ありがたく、出席させていただきますので、どうぞよろしくお願いいたします」
人生の大先輩ばかりの中に一人放り込まれた哀れな美羽にはもはや為す術もなく、長いものに巻かれる道を選ぶほかなかった。
この小説は完全なるフィクションです。
設定もゆったりです。細かいことは「そんなもんか」と思っていただければ幸いです。