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呼ぶ人  作者: はち
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すべてのはじまりはここから

のんびりと気の向くままに進めていきます。

興味を持っていただけましたら、ゆるゆるとお付き合いくださいませ。

 医療関係者間でのみ通じる暗黙の了解は、多い。

 医療用語の略語然り、良くも悪くも特徴のある医師のあだ名然り。

 ————そして、まことしやかに囁かれる“呼ぶ人”然り。


 この場合、何をどんな状況で“呼ぶ”かは人によって異なる。

 例えば、勤務時間帯の患者の急変率がとんでもなかったり、夜勤に入れば初療室から引っ込む暇もないほど救急車がやってきたり、消灯と同時に高齢の入院患者たちが一斉にせん妄状態になったり、何なら勤務に入るたびに何らかの騒動に巻き込まれて否応なくスキルアップせざるを得なかったり。

 ただ、これが病院内でのみ“呼ぶ”のであれば、まぁ少々同僚からの視線は痛いものの、何とでもなるだが、日常生活においても“呼ぶ”のは、どう考えてもとんでもないトラブル引き寄せ体質である。





 その日。

 四宮美羽<しのみやみはね>は、夜勤明けの振り切れたテンションのまま、都内へと出てきていた。

 7月の初めとはいえ、14時ともなれば日傘を差していても非常に暑い。しかし、以前から目星をつけていた紅茶とフルーツタルトが絶品だというカフェは、いずれの駅からも少々距離があるため、てくてく歩かざるを得ない。

 それに、カフェでまったりした後は、ずっと観たいと思いながらもなかなかチケットが取れず、先日ようやく隅の隅に1席だけ空いているのを見つけたミュージカルのソワレ公演が待っていた。いくら夜勤明けでも、凄まじく暑くとも、タクシーという選択肢はない。パンフレットはもちろん、何か気になるグッズがあればきっと買いたくなる。2度目がいつ来るのか分からないともなれば、なおさらだ。軍資金は、多いに越したことはない。

「あっつー……」

 とはいえ、暑いものは暑い。

 しかも、いくら元気に闊歩しているとは言え、美羽は夜勤明けである。体力の減りは、通常よりもやはり早い。ふぅと溜息を吐いた彼女は、建物の陰で足を止めて鞄から水筒を取り出した。よく冷えたアイスティーを一口飲み、ついでに塩レモン味のタブレットを口に放り込んでおく。

 ちらりと辺りを見回すと、美羽の他にも、残暑の中を多くの人々が行き交っていた。その中には、自分の祖父や祖母と同年代かそれ以上と思われる高齢者もちらほら見える。頼むからきちんとこまめに水分補給して、塩分も補給して、やばいなと思う前に休んでくださいよと心の中でお願いしてしまう。熱中症は怖いのである。

 再び歩き出そうとした美羽の横を、すーっとタクシーが通り抜けて行った。窓を閉め切った車内は、さぞかし涼しいことだろう————まぁ、端から移動手段の候補にタクシーが入っていなかった彼女には関係のない話ではあるが。

タクシーが少し進んだところにある建物の敷地内へ入っていくのを見ながら、美羽はもうひと頑張りだと気合を入れ直した。

 さて、余談だが、看護師は比較的鋭敏な感覚を持っている者が多いと言える。特に、自分自身の仕事に関わる音——医療機器のアラーム音や、物の倒れる音は、わりと遠くの病室で生じた音でも、察知できる傾向にある。

 従って、改めて日差しの中へ一歩を踏み出した美羽が、どさりという何かが倒れた音と「お客様!?」という悲鳴交じりの声に眉を跳ね上げたのはある意味、当然とも言える。しかも、彼女は夜勤明けであり、つまりそういう様々な音に感覚を研ぎ澄ませながら16時間超を過ごした直後であった。人間、そう簡単に意識は切り替えられないのである。

 乱暴に日傘をたたんだ美羽は、ちらりと時計を確認すると迷わず走り出した。周囲に視線を巡らせれば、目的地はすぐに見つかった。広い車寄せを備えた高層ビルに停車したタクシーの脇で、スーツ姿の背の高い男性が、力なく倒れ伏していたのである。タクシーの運転手は、とりあえず運転席から出てきたものの、狼狽えるばかりのようだ。建物の中からは警備員と思しき姿の男が2人走り出てきたが、混乱しているのは遠目にも明らかだった。

 逡巡は、一瞬。

「ほんとにもう……!」

 人命と紅茶&フルーツタルトでは、天秤にかけるまでもない。

 ————例え、直前の16時間のうちに、緊急手術の患者を受け入れ、夜間せん妄のおばあちゃんに点滴トレーをぶん投げられ、眠れないんですと5分おきに押されるナースコールに振り回されていたとしても。



「ちょっとどいてください! 看護師です!」

 美羽は、右往左往する男たちを掻き分けて、患者らしき男性の側に駆け寄った。“看護師”の単語に、周囲の人々の顔に安堵が広がる。

「運転手さん! どんな状況ですか!?」

「えっ!? あ! あの、突然胸を押さえて、倒れられて……!」

 男性の傍らに膝をついた美羽は、胸と聞いて微かに眉を寄せた。

「倒れた時に頭を打ったかは分かりますか?」

「い、いえ……はっきりとは分かりませんが、膝から……!」

 運転手からの情報と出血がないことから、ひとまず頭は打っていなさそうだと判断した彼女は、やや側臥位気味だった男性の体を仰向けにさせる。苦悶の表情を浮かべた男性の表情を見て嫌な予感を覚えながらも、両肩を力強く叩いて呼び掛けた。

「大丈夫ですか!? 分かりますか!? ——反応なし、意識なし」

 男性が反応しないのを見ると、彼女はぱっと顔を上げた。ぐるりを辺りを見回し、徐々に建物の内外から人が集まってきているのを確認する。

「運転手さん、救急車呼んでください。警備員さん、AED持ってきてください。救命処置を手伝っていただける方、近くにお願いします」

 簡潔に指示を出すと、美羽は遠慮なく男性のスーツとシャツの前を開けた。ファッションのことはあまり興味がないのでよく分からないが、凄まじく手触りのいい生地であった。

「呼吸、循環なし。——心マ開始」

 患者の頭元に屈んだ美羽が胸郭の動きと動脈の拍動を確認している間に、わたわたと運転手が携帯電話を取り出し、警備員が転がるように建物に駆け込んでいく。また、建物から飛び出てきた美羽とあまり変わらないだろう年齢の男性3人が、すでに集まっていた野次馬から話を聞いたのか、一次救命処置の講習を受けたことがあると申告してくれた。

「ありがとうございます。2分経ったら交替を——」

「え、えと、あの……50代の男性の方で、え、えっと……」

 ひとまず自分自身で胸骨圧迫を開始しながら、青年たちに声を掛けかけた美羽だったが、通報の方が少々怪しいことに気付いてしまった。運転手が、だらだらと大量の汗をかきながら携帯電話に向かって喋っているが、何とも心許ない。

「すみません、そちらの黒のシャツにサングラスの方、胸骨圧迫交替してもらえますか。私の向かいで準備をしてください。——はい、1、2、3で替わりますね。いきます、1、2、3」

 一気に噴き出た汗を拭いながら、救命処置に参加できそうな面々に疲れる前に交替するよう声を掛ける。そのまま踵を返した美羽は、運転手に声を掛けて通報を先に終わらせることにした。そうでなければ、いつまでも救急車がやってこない。

「すみません、お電話代わりました。通りすがりの看護師です。患者は50歳代と思われる男性、タクシーから降りたところで、胸部を押さえて突然倒れ込んだようです。呼吸、循環ありません。1分前から胸骨圧迫を開始しています。心停止から、胸骨圧迫開始までは、およそ1分半。既往歴は不明です。ざっと見たところ外傷はありませんが、倒れた時にどこか打ちつけている可能性もあります」

 視界の隅に、AEDを抱えた警備員とスラックスにワイシャツ姿のまだ若いと思われる男性が建物から走り出てくるのが見えた。

「社長————!」

 悲壮感に充ちた男性の叫びに、思わず美羽は気絶しそうになった。

 よりにもよって社長か!

 しかも、その叫んだ男は、一生懸命救命処置に励んでくれている青年たちを掻き分けて“社長”に縋りつかんばかりの勢いで、はっきり言って救命の邪魔である。案の定、比較的冷静な野次馬たちに取り押さえられているが、いずれにしても貴重な人手が取られており、AEDを使うとなれば間違いなく一緒に感電して要救助者を増やしてくれそうだ。

「すみません、こちらの方のお知り合いの方でしたら持病などご存じですか? 今救急につながっていますので、分かる範囲で患者さんの情報と、こちらの建物の住所をお伝えください」

「っ……! あなたは!?」

「通りすがりの看護師です。こちらは人手がありますので、お願いします」

 致し方なく、タクシー運転手の携帯を男に押しつけ、さりげなく前線から退いてもらった。汗だくになっている青年3人に救急車が来ることを伝え、警備員が持ってきたAEDの準備を始める。電極パッドを貼りながら、警備員には救急車と野次馬の誘導を依頼し、タクシーの運転手には車の移動を指示し————。

 AEDの『心電図を解析しています』という電子音声を聞きながら、美羽は静かに今日の紅茶とフルーツタルトを諦めた。

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