95、小さくて、大きいもの
肩を抱かれて、リリスが驚いて見上げる。
気さくなルネイは、彼にゆっくりと語りかけた。
「人というのは弱い物じゃ。自ら厳しい道を選ぶ者は少ない。
子に赤い髪の子が生まれたからと言って、手放してしまおうとお主の親が本当に思ったのかはわからぬ。
だが、しきたりに捕らわれている家柄の者であれば、それを破るのは困難であっただろう。
密かに育てることもできなかった理由が、お主の両親にはきっとあったと思うのだよ。」
「……ええ、わかります。きっと、わかっていたのです……でも……」
久しぶりに会うキアナルーサの姿。
不安に揺れて、なんと気弱なその振る舞い。
自分が口を閉ざした事で、彼は充実した日々を送っているとばかり思っていた。
「どうしてこんなに……人は思い悩むのでしょう……」
つぶやくようにポツンと漏らし、眼下に並ぶ家々を見下ろす。
そこに暮らす人々、一人一人にも悩みがあるのだろうか。
身分がどんなに高くても、満たされない思いが必ず人にはある。
「万物に、完璧などありはしない。
人は悩みを抱えるからこそ、そこに強さがあり弱さがある。
それこそ、愚かなる人間の生きる原動力だよ。
……と、わしの師は言っておったな。
まあ、酒好きの型破りな師であったが、なぜかシールーン様の気に入りでな。」
「悩みが……満たされないからこそ、生きる原動力と……」
「そうだな、追い求めるのは悪いことではない。
人は意識することもなく、必死で日々を生きているのだよ。
生きることにどん欲である事には罪はない。
人は、愚かであるのが普通なのじゃ、なにも恥じる事はないのじゃよ。」
ちらとルネイがリリスを見下ろす。
そして驚いたことに、遠くを見つめ明るく微笑む彼の表情に目を見開いた。
「ええ、ええ……本当に、人はなんて愚かなんでしょう。
きっと、私は憎んでいたのです。
うらやましくて、たまらなかったのです。
それがとても醜くて、きっと目をそらしていたに違いありません。
でも、
でも、それが、それこそが……
きっと、真実の私。
私も愚かで小さく、弱い人間なのです。
だから、両親の気持ちもわかります。
同じなのです。
私はこれ以上、人に嫌われたくなかった。
何もかも失う気がして、小さく震えていた。
でも……
でも、それでは周りが見通せない。
それは……結局は人を信じていなかったと言うこと……
それは…………
なぜ?なぜだろう……なぜ私は道を誤ってしまったのか……
そう、
私は、人を、周りの人間達を、きっと……小さく、甘く見ていた?
そう、そうです!
私は、見くびっていました。
周りの人々は、所詮何も見ようとしない、小さな、小さな人間達ばかりだと。
ずっと、小さな頃から……
昨夜あんな事があって、皆様に良くは思われていないことは重々承知しておりました。
だからこそ今日は朝食の時、何も気にしてないように大きく振る舞うことで、周りを跳ね返そうと思っていました。
すべてと戦うつもりで。
でも、でも…………私は愚かでした。
すべてと戦うなどと、それは大きな間違いでした。
私は馬鹿です、愚か者です。
ああ、なんて大きな人たちでしょう。
私はもっと信じていいのだと、皆さんから教えられました。
人は小さくて、そして大きくて、頼っていい時には頼ってもいいのだと、知らされたんです。
ありがとうございます。
私は、きっと迷っていたのです。臆病だったのです。
何をすべきかわかっているのに。
私は、もっと勇気を出します。
お味方になって下さる方は、必ずいるのだと信じます。」
明るく一気に話すリリスに、周りがポカンと見つめる。
リリスはここに来て見たこともないような笑顔で、手にあるヨーコ鳥を空高く放り上げた。
「チュチュッ!」
ヨーコが驚いて空に飛び立ち、リリス達を見下ろす。
今朝の出来事が、こんなにリリスを変えるなんて。
彼にとって、それは生まれて初めてのことだったに違いない。
なんてことだろう、彼はもっと、もっと大きくなって行く。
人の姿なら、ヨーコの顔は燃え上がっていただろう。
以前にも増して輝いて、美しく、りりしい。
本当に、生まれつきの王子なんだ。
好き、大好き。やっぱり好き。
やがてリリスはルネイの手の中から飛び出すと、彼に一礼して、城の中へと走り出す。
慌てて追いかけるガーラントの横をすり抜け、リリスと共にヨーコも飛んでゆく。
後に残されたルネイがそれを見送っていると、弟子がポカンとした顔でつぶやいた。
「変わった……方でございますね。
本当に、召使い上がりなのですか?とてもそうとは……」
「フフ……自問自答して、それで答えを導き出しおった。
ほんの少しの言葉から、自分で全部答えを出して走り出しおった。
なんて変わった、なんて型破りな魔導師よ!」
ルネイが大きな声で笑い出す。
「のう、人の成長を見るのはなんと楽しい事じゃ。
だから人間は止められぬ。たとえどんなに愚かでもな。」
「は……はあ、そうでございますね。」
ルネイには、リリスの後ろ姿が初めて出会った時のガルシアと重なって見える。
身分という物に疑問を覚え、貴族のプライドに疑問を覚え、王家の血筋に疑問を覚え、すべてを自分で答えを導き出して、そしてレナントに自由な風を吹き込んできた。
「まことの、世継ぎかもしれぬ……」
師の小さくつぶやいた言葉を、そこにいた弟子は愕然とした面持ちで聞いていた。
リリスは自問自答します。
そして答えを得ます。
頼れる物が少なかった彼は、自分の世界が小さいのです。
でも、レナントの風は、彼の壁を一枚打ち壊したのだと思います。