574、温泉地にて
リトスの大皇は、その頃少し離れたベスレムの保養地にいた。
ベスレムには火の山があり、そこを起点にいくつかの温泉があって保養地が出来ている。
その保養地は中でもベスレムの一番端にある温泉地で、地の神殿への参拝ついでに立ち寄る客も多いので、眼下の温泉街は人で賑わっている。
長期で保養する客も多く、金持ちや貴族はこぞって景観の良い山手に別荘を建てていた。
何を考えているのか兵達を草原に置き去りにして、あとを第3王子に任せ、大皇はイネスの姿のヴァシュラムとヤヌーシュと共に、懇意にしている商人に声をかけ、彼の別荘で世話になっている。
ここへ来たのは3人と周辺の側近と近衛のみで、アトラーナの兵の姿も表だって周辺には見ない。
大皇は、ヤヌーシュが使っていた小さな馬車に第3王子を残し、兵の統率を取るよう命令して、なぜかヤヌーシュに同行するよう命じた。
ヤヌーシュが怪訝な顔で同行を受け入れ弟を見ると、雨が降り続ける草原に残される弟は、ギリギリ歯を噛みしめて憎悪の目でヤヌーシュを睨み付けてきた。
てっきり残るのは自分だろうと思っていたが、まあ、弟に同情しつつも高名なベスレムの温泉地だけに、風呂は堕落しそうな気持ちの良さだ。
リトスにも交易している商人はいくつかあるが、大皇は金回りが良く、もっと商売に幅を広げたい向上心のある商人に使いをやった。
その商人は留守をしていたが、大皇からの話とあって家人が飛ぶようにして馬車で迎えに来た。
豪華で眺望の良い場所にある別荘は、このあたりでも飛び抜けている。
賓客をもてなすことによく使われるらしく、使用人も多い。
執事が主人の言づてで、快く自由に使って欲しいと伝えてきたが、大皇と聞いたのに見た目若い者ばかりで少々怪訝な顔も見せるのが可笑しかった。
ふんだんに食料も衣服の提供もあり、一切困る物が無い。
ただ、なぜか、この別荘の周りだけ、雨がずっと降り続いているのが不思議だ。
おかげで散歩も出来ない。
まさか、あの宿営地を出ても雨が追いかけてくるとは。
まったく精霊とは怒らせると驚異的にしつこい。
日が傾きはじめ、夕げの前に湯をもらうかと風呂に行く。
ここは外風呂と内風呂どちらもあって、外風呂の開放感は気持ちのいい物だが、雨で気持ち良さが半減する。
内風呂の大きな湯船に身体を横たえても、なかなかに良いものだ。
湯を上がって身の回りの世話をする女に身体を洗ってもらいながら、温泉を口にした。
特に味は無いが、穏やかな香りがある。
ここの温泉は飲むと身体にいいらしい。
「ラユールでございます。」
ラユールが裸足になって風呂に入ってくると傍らに立つ。
チラリと見ると、頭を下げた。
「チナから連絡は来たか? 」
「はい、先ほど間者が参りました。
王子は動かれる気配が無く、雨は降り続き、悪臭が漂い、次々と体調を崩す者であふれているようでございます。
くわしくは後ほど。」
「馬鹿だな、疫病にまみれたら、燃やすしか無いと言うのに。
毎日移動はしているのか? 」
「はい、しかし同行の兵が多くございますので。」
「半数を戻せば良いものを。今のままでは、他国の地に汚物を垂れ流すだけでは無いか。
わかった、チナには今夜戻れと伝えよ。」
「承知しました。
今夜は食事を共にするようにと、大皇様が。」
「わかった。お前は風呂に入らないのか? 」
「私は後ほど頂きます。」
「良いものだぞ、温泉は良い文化だ。」
風呂から上がって、シンプルなベージュの木綿のローブを着せてもらう。
ズボンは無く、着物のように前で身頃を互いにして濃い青の帯を巻いて左前で結ぶ。
帯の上から黄色の飾り紐をリボンに結び、金のネックレスをした。
しかし、ズボンも無いと下着だけで寝間着と同じだなと思う。
「下はないのか? いつも履いてるからスースーする。」
付けていた装飾品を数えて箱に収めながら、言いにくそうにボソッと言った。
「下は、いらぬと。ヴァシュラム様が。」
ヤヌーシュはそれが何を意味するのか察して、彼を睨んでハッと息を吐いた。
「俺にあんなバケモノと寝ろとお前は言うのか? 」
ラユールは無言で頭を下げる。
彼は、ただ言われたことを伝えるだけで、意見など出来る立場に無い。
「まあいい、ククッ、考えてもみろ、あいつの身体は神の代理人と崇められる巫子だぞ?
その巫子が、自分が崇めてた神って奴に乗っ取られたあげく、下衆に身体を弄ばれるんだ。
なんて背徳的なんだ。
この巫子は自分を取り戻したときどう思うんだろうな。
それとも、中にいて一緒に楽しむのか?
それとも、これまでも一緒に花遊びを楽しんでいたのか?
ククク、正気を取り戻したときの、顔を見てみたいものだ。」
食堂に行くと、すでに少年の姿の大皇と、イネスの姿のヴァシュラムが食事をしている。
大皇は、ヤヌーシュと同じ銀の髪に小麦色の肌をして、並ぶとまるで兄弟のようだ。
黒いローブに金の縁飾りのゆったりとした藍のガウンを羽織り、ヴァシュラムは民草が着るような、薄いグリーンの木綿の簡素な上下を着ている。
下座を指さされ、座るとグラスに酒が注がれた。
「随分ゆっくりしているな。
ククク、堕落させるために連れてきたのでは無いぞ。」
大皇が皮肉に笑ってグラスを上げる。
ヤヌーシュもそれに応えてグラスを上げる。
「リトスに繁栄あれ」
大皇に言葉を捧げると、一口飲んだ。
空きっ腹に腹の底からカッと熱が上がる。
味はほんのり甘くてジュースのように美味しいが、飲み過ぎると良くないなと思った。
「承知しております。宿営地の報告を受けておりました。」
「ほう、辺りの様子は? 」
「周囲3カ所にアトラーナらしき者達が監視し、その後方2カ所に多数の兵が待機しております。
一方はかなりの装備で練習怠らず、恐らくレナントからの加勢が来たと思われます。
レナントの兵は長年トランとの緩衝役にも慣れていますから、士気が高い兵が多く、戦いにも慣れております。
我が国の兵には敵いませんでしょうが、わが兵は現在精霊から迫害を受け続け、気力、体力共にかなり低下が見られます。」
「精霊の迫害か…… まさしく、国を出るまで嫌がらせを受けるのだろうな。
国内で血を流せばと言うのなら、トランはなぜ神罰を食らわんのだ? 」
「恐らくは、精霊王がらみであることも影響するのかと。
また王族を傷つけようとした、王族を命がけで守る者を傷つけた。その結果も関係するかと存じます。
精霊と王は沢山の契約を交わしていると聞きますから、何らかの契約があるのかもしれません。」
「ははっ! 黙って返せと言うのかね? あの状況で。」
大人しかったヤヌーシュの視線が、一転してひどく冷たく、刺すように睨み付けた。
「元より、彼はあの大群の中を命がけで来たのです。
それを寄ってたかって襲うなど言語道断。
誰が見ても醜い行為だ。
なんとリトスの王族は狭量で卑怯で小さい物よと、後ろ指さされるのは目に見えております。
我らは表面上戦争に来たわけではありません。
粛々とした返答に、大義であったとねぎらいの言葉で帰すべきなのです。
この、精霊王がいなければと、私はあの場を悪化させた要因はこの男の存在であると確信しております。」
あの時、兵を止めなかった大皇ヘの怒りを、ヤヌーシュがぶつけた。




