558、この世界にはあり得ない物
隠れてフレデリクが様子をうかがう。
あれは、見覚えがある。ティルクのバルザール王子だ。
父上が最近会ったって聞いたけど……
「ここはトランだぞ? ティルクの王子が兵を連れて越境するなど正気か? 」
「はっ! この状況でその落ち着きよう、気に食わぬな。
汝が我らとの折衝役のはずだ。王子を引き渡せ。
お前も仲間を斬り殺しただろう、見ていたぞ。
引き返せぬ状況で、余計な手間を取らせるな。」
「なぜ王子を交換しようとする。アレクシス王子は生きているのだろうな?
私は折衝役だ、その答えは聞かせてもらってもいいはずだ。」
青年は、気味が悪いほど醜悪にニッと笑う。
「そうだな、役立たずのお前なれば聞かせてやっても良かろう。
ケイルフリントの王子は見目良く粒ぞろいだ。
おなごの代わりも具合がいい。だが、使い古しは飽きるのだよ。」
驚きで、耳を疑った。
何を言っているんだ。
この、隣国の王子って奴は、本当に王子なのか?
「馬鹿なことを…… 」
反応に満足したのか、バルザールが続けた。
「面白いぞ、王族の鼻をへし折るのは。従者も失って裸にひんむかれ、鎖で繋いでおくのだ。
誇りのある奴ほど、一匹の動物に成り下がっていく様は面白い。
ケイルフリントなど、従属国に過ぎぬ、お前達など家畜にしてくれる。」
「おのれー! 貴様ー! 」
サムエルが、怒りに髪を逆立てた。
目を見開き、筋肉が盛り上がるほどにギリギリ拳を握りしめる。
そうやって、今のティルクは領土を増やしてきた。
慈悲の欠片も無く、小国を攻め、その王家を辱めて殺し、国民を捕らえては奴隷として使い、女子供は売りさばく。
最低の大国だ。
それを、この国でもやろうというのか?
怒りに燃えて、剣を抜く。その様子に、バルザールが眉をひそめた。
「冗談だ、真に受けるな。あの犬は生きているとも、生きている。
貴様が我らと戦う理由はなかろう。」
目を合わせようともしないバルザール王子にゾッと寒気がする。
「生きていると、ただそれだけか。犬だと? 我が王子を、犬だと?」
「捕虜など我が国では人ではない、犬だ。
それとも我が父上に意見するか? 死に急ぐな、たかが雑国の下郎が。」
フレデリクが、口を押さえてガタガタ震える。
ゆっくりと回り込むサムエルが、目前まで来た。
まさか、ここにいると言うのだろうかと、怯えて身体が動かない。
だがしかし、サムエルは気付かれぬよう庇って立つと、剣を構えた。
「我が王子を侮辱し愚弄した罪、同じ王家でありながら許せぬ。」
「バカかお主、1人でこの数と戦う気か? お主が騒ぎを起こすと、囚われの王子は戻る機会を失うぞ。」
ギリギリ歯が割れんばかりに噛みしめる。
この、王家に仕える者としての矜持を図る瀬戸際で、一矢報いるべきなのか、後ろに隠れる王子を守るべきなのか。
たとえ一矢報いても、後ろの王子は捕らわれるだろう。
そして、犬にされるのだ。
だが! これを聞いて、一糸も報いること無く引いて何だという!
あの、聡明な王子の絶望を聞いて、引けというのか!
…… 王子を、頼む ……
ハッと、目を見開いた。
わかっているとも、トーケル殿。
落ち着け、落ち着くんだ。
ディファルト様にも頼まれたではないか。
王の勅命に従って、私は彼を裏切った。
もう、それで十分だ。
トーケル殿、私はあなたの出来なかったことをやらねば!
視線を動かす。
だが、どうやってここを突破する?
敵は矢も持っている。
ザッと風が吹いた。
バルザール王子の乗った大型の猫種、ミュー馬がビクンと顔を上げると、辺りを見回し毛を逆立てる。
恐ろしいほどに、機嫌が悪くなった。
ファァァァーーーーー シャアアーーーーッ!
「な、なんだ? 大人しくしろ! 」
なぜかミュー馬が落ち着きをなくし、彼を振り落さんと暴れる。
慌てて兵達がミュー馬の手綱を引き、横から押さえようとした。
だが、ますます馬は暴れ、長い爪を剥き出しにすると兵を傷つけ始めた。
「馬を! 馬を取り押さえろ! 」
シャーーーーッ! ギャアーーーッ!
「ギャアッ! 」
「クソッ! 」
サムエルが、バッと後ろのヤブに手を入れ、王子の手を引き立ち上がらせる。
「サム…… 」
言葉も聞かず、バッと腰を抱えると、西へと走り出した。
「あれは王子の馬です! 今のうちに逃げます! 」
「にっ、逃げた! 追え! この! うわあっ!! 」
立ち上がるミュー馬から振り落とされると、落馬して兵の手を借りて起き上がるバルザールが腰から何かを取り出す。
「役立たずが、死ね! 」
パンッ! パンッ!
なぜかこの世界にはあり得ない銃の乾いた発砲音が響き、ミュー馬の首をかすめ、一発が肩に当たった。
ギャーーーーーーッ!!
ミュー馬は目を真っ赤にして怒り狂うと、銃を持つ王子に襲いかかる。
兵は剣で立ち向かうが、ミュー馬が牙を剥いて大きく背を丸め俊足でそれをなぎ払う。
「た、助け ギャッ! 」「逃げろ! 」
慌てふためき塵尻になる兵を追い回してことごとく倒して行く。
バルザールが後ろに下がりながら、また銃を向けた。
「くそっ、やっぱり犬のものなど犬以下だ! 死ね! 死ね死ね! 」
パンパンパンパンッ! カチッカチッ
「出ない! なんでだ? 弾が出ない! 」
ギィィィギャアアーーーー!!
ミュー馬は巨体ながらネコのように俊敏に木々を飛び交い弾を避けると、王子に飛びかかりその身体を鋭い爪で切り裂いた。
「 ギャッ! 」
「 あっ! 王子が! 王子がやられた! 」
「 殺せ! 誰か殺せ、止めろ! うわああっ! 」
手に負えなくなったミュー馬に、誰かが命令する。
だがその時にはミュー馬の毛が鋼鉄のように固く締まり、剣を一切受け付けない鎧の獣と化して、兵達を切り裂き、噛み砕き、そして一気に走るサムエルのあとを地響きを立てて追っていった。
あたりにはうめき声が響き、追うこともやめて、残された兵達は呆然と辺りを見回す。
彼らもミュー馬を扱う事はある。
だが、ここまで逆上して猛獣化したミュー馬を見るのは初めてだった。
「王子…… 王子はご無事か? 」
無事だった側近が長年仕えてきた、主の青年を探す。
だが、そこには激しく傷つき、瀕死の身体を横たえる王子がいた。