528、絶望的な状況に
軽く衝撃を受けて、またうとうとしていたリリスがボスンとどこかの椅子に横たわった。
冷たい風がピューッと吹いて、重いまぶたをこじ開ける。
「え? あれ? ここどこ? 」
しむしむ目を開けて、周りを見回す。
どう見ても地の神殿の中庭だし、どう見てもそこにあるベンチだ。
「えー、なんで? こんな事もできるんですか?
ほんと、良くわかんない神様ですね。
うう〜、で? なんだったっけ? なんて言ってたっけ? 」
ザワザワと人の話し声が聞こえて、切迫した声が上がった。
「駄目だ! 息の臓を傷つけられている。」
「外を塞いだら駄目だ、中で血がたまって行く。」
「どうする? 息の臓は構造が複雑で魔術で繋げるのが難しい。
神官が今癒やしを全力で送っているが……
巫子が押さえられている間に何とかしないと。」
リリスが立ち上がって、両手でパンと自分の頬を叩く。
ボサボサの頭で急いで駆け寄ると、顔見知りの医療魔術師に手を上げた。
「エステル様、どうされました? 」
「えっ? リリス殿、いらしていたのですか。
今、大けがを負った方が運び込まれていて…… 」
うつろで聞いた誰かの病状を聞く。
それがレスラカーンの側近のケガのことだと聞いて、ようやく目が覚めた。
「そうか! ライア様ですね? それで恩人だと青は…… 」
「水の巫子がお見えになっているのですが、血を止めるのが精一杯で。
息の臓は血の道が細かく、ケガの治療に手が出せないのです。」
「普通はどうしてますか? 」
「内臓は魔術的処置で傷を塞ぎ、助かるかは5分ほどになります。
しかし、息の臓は傷が深いと出血でほとんど…… 」
「わかりました、私に出来ることがないか見てみます。」
「あなたに? 」
術師は首を振りながらも、中へと案内する。
もう、出来ることがないのだろう。
アトラーナでは、外科の治療は縫い合わせるか、切り落とすしかない。
麻酔が発達していないので、大変な苦痛を伴う。
リリスもベスレムで切られたときを思い出すと、寒気がする。
入るとすぐ横でレスラカーンが椅子にかけ、良く見るとうなだれてガタガタと震えている。
その横に大柄の戦士カリアが立ち、リリスに気がつくと姿勢を正し頭を下げた。
「ご無事で。本当に心配しておりました。
この状況は、思ってもいなかったことがあったのかと存じます。」
「はい、レスラカーン様の対応に間違いは無かったと思います。
ですが、色々と思いがけぬ事がございました。」
カリアが暗い顔でうつむく。
「み、巫子殿、お頼み、どうか、お頼み申す。
ライアを、どうかライアを…… 」
憔悴したレスラカーンが、リリスに手を伸ばす。
その手を取ると、冷たく震える手に心が痛み、目を伏せた。
失いたくないという気持ちが、恐ろしいほどに真っ黒に迫る。
レスラカーンは、彼を失うとたった一人になってしまうからだ。
ライアは家族なのだ。
死ぬなら自分だと思っていただろう。
だが、皆が彼を大切に守り抜いた。
守り抜いたのだ。
リリスはその手を包み込み、ギュッと握った。
「やれることをやる為に参りました。
良く、生きて帰られました。」
「私だけが…… うっ、うっ、…… 私だけ生きて、いても、
うっ、うっ、 駄目なのです。
ライアを、 失っては…… 、 私は、 ただ、ただ、
後悔の、中で、 ひっく、 生きねばならない。
どうか、 お願いします。」
手から滑り落ちて、床に手をつきリリスに頭を下げる。
リリスは驚いて彼を起こした。
「駄目です、レスラカーン様。
あなたは王族なのです。
そのようなことをされてはなりません。」
ただただ涙を流す彼を横にいるカリアに任せ、リリスが立ち上がった。
口に白い布を垂らした魔術医たちが、せめてと他の傷を縫っていた。
処置を済ませて、リリスに場を譲る。
「胸の傷が、骨の一部を断って中の息の臓まで達しています。
息の臓は、血と空気が詰まっていてどうすることもできません。
すでに運び込まれたときは相当の出血があり、すぐに水の巫子殿が出血を止められましたが時間の問題かと。」
血の付いた布が周りにあふれ、どうすることもできず重苦しい空気の中、奇妙なほどに言葉が少ない。
しゃくり上げる女の子のつぶやくような声だけが、絶望を際立たせていた。
「早く…… 早く何とかして。
早く…… 」
そこには、顔を隠すことも忘れて、手を血だらけにした水の巫子イルファが、泣きながら必死で力を送り血を止めている姿があった。
彼女は水の流れならば制御出来る。
それを応用して血を止めているのだろう。
周りに側近がいないところを見ると、1人で水の道を通って来たのかもしれない。
今ごろ水の神殿は大変な騒ぎだろう。
「イルファ様、替わります。」
イルファが、ブルブル手を震わせて集中している。
リリスが声をかけても気がつかないほどに、泣きながら血を止めていた。
リリスがその手を上からそっと握った。
「イルファ、 イルファ、ありがとう。」
「…… え 」
ようやく顔を上げて、リリスを見つめる。
「イルファ、ありがとう。きっと彼は、君のおかげでまだ生きてる。」
「 そう、 かしら 」
呆然と、言葉が返ってきた。
彼女の可憐な唇が、ブルブルと震えている。
リリスは優しく微笑み返した。
「君のおかげで僕は間に合ったんだ。」
「あなたは助けられる? 彼はとてもいい人なの。
裏表のない心で、私を褒めてくれるの。
レスラをとても大切にしてくれるのよ。」
「彼自身が黄泉から戻るなら。
それは生きたいという力になるよ。」
「黄泉に? 黄泉に行ったの? 」
「青が連れ戻しに行った。だから、僕が傷を塞ぐ。
君はもう少し力を貸してくれる? 」
「もちろん、もちろんよ。何をすればいいの? 」
「血が流れすぎてるから、増やさなきゃ。」
「うん、うん、わかったわ。」
ガクンと、イルファが後ろにのけぞる。
それをパドルーが支えて、椅子に座らせた。