521、偽物か、本物か、
イネスが自分の腕輪を見る。
物心ついたときから父のように慕ったヴァシュラムを強く感じるリングの腕輪を、握りしめる。
青の巫子がなれの果てだと言ったこのリングは、ヴァシュラム様本体かもしれないと思っていた。
なのに、この人物は何だろう。
ヴァシュラム様から感じていた、神気も感じない。
まるで、 まるで、 あの、ドロドロとした、黒い澱。
いや、精霊王が、まさか闇落ちするはずはない。
頭が混乱する。またいつものいたずらかもしれない。
「イネス様、腕輪をお外し下さい。」
サファイアがとっさにささやき、イネスが慌てて腕輪を外そうとする。
だがその腕輪は小さくなって、締めつけるように取れなくなった。
「サファイア、駄目だ、取れない、外れないんだ。」
「ククク、無駄だ。それはわしの本体、外れぬよ。離す物か。」
リトス大神の巫子という人物は、立ち上がるとボロボロと崩れる黒い手を差し出した。
「待ちわびたぞ、イネス。お前なら、使者を送れば自ら来ると信じていた。
良い子よ、美しい正義感に満ちている。
ああ、思った通りだ、本当によく来てくれた。」
「なんで? ここに? 」
「何故と聞くか、我が巫子よ。
あの、ガラリアが裏切ったからだ!
わしはリトスに居を移し、もっともっと巨大で 荘厳な神殿を構え
神の中の神、この世で唯1人の全知全能の神として、リトス大神を名乗り
尊ぶべき偉大な巫子としてガラリアを据える、つもりだったのに。
なのに! あれはわしを裏切ったのだ!
これは重大な罪!!
アトラーナを 撃たねば、この怒りは 静まらぬ!
王は死んだか?
あのうるさい宰相は?
ルランの城は崩れたか?
この分かたれた身では、どうにも鈍くてならぬ。」
城の状況は自分も知らない。
だが、リリスがいるならきっと大丈夫だ。
あれはもう、神気に満ちて精霊王と並んでいる。
だが、それもおわかりにならないのか? あの、すべてを見通す地の神が。
「王は…… 王はご存命です、城は崩れてなどおりません。
何を仰っているのです?
ヴァシュラム様、アトラーナへ戻りましょう。
このような冗談は笑えませぬ。
あなたはアトラーナの精霊王なのですよ! 」
「なんと! 生きているのか、ルルリアめ。
王家を全て 滅ぼすと息巻いておった ゆえ、城は崩れて 王も死んだと 信じていたというのに。
さあ、イネスよ、わしにはまだやることがあるのだ。
わしに力を貸すが良い、許す。
もう、このリトスに置いていた身体は限界だ。
おお、良い子よ、ちゃんとリングをしておる。
聖域に行かず 力を大量に消費 したのでな、一時的に身体を 失って しまっただけだ。
慌てて身代わり石に、入ったが、泥人形がどうにも安定せぬでな。
なに、お前がいれば万全よ。」
「なにを仰っているのです。
皆、あなた様をお待ちしております。
さあ、一緒に帰りましょう。」
イネスの声が震える。
ヴァシュラムが、ワケのわからないことを言うときが一番怖い。
離れようと思っても、逃げ場が無い。動けない。
まるで、獣に見据えられた獲物のように。
兄様、兄様!! 助けて!!
心の中で、兄巫子のセレスを呼ぶ。
だが、その声が届いているのかも、わからなかった。
「よし、よし、愛い子よ、奴隷の女が森で生き埋めにしようとしたお前を、掘り起こし拾って来た甲斐があった。
もう、かしずかれ、贅沢するには満足しただろう。
さあ、こちらへ来るが良い。
良き子だ、お前がいてくれて良かった。」
「え? え? 奴隷? 」
イネスが目を見開き、ガタガタと身体を震わせる。
「イネス様! 聞いてはなりません! 」
サファイアが彼の手を引き、胸の中に抱きしめる。
「どうなさるおつもりか?!
このサファイア、イネス様の御身を守る為にここにおります! 」
「おお! サファイアよ、よくこれまで傷1つつけず守ってくれた!
汝の任を解く! 疾く、地下へ帰れ! 」
バッと上げた手から、ボロボロと土塊がこぼれる。
フードが倒れ、顔のほとんどが泥に戻った泥人形が顔を出した。
奇妙に笑う顔からボソリと鼻が崩れ落ち、伸ばした腕がドサンと上腕から落ちる。
イネスが小さく悲鳴を上げた。
「 ひいい! 」
「さあ、イネスよ。」
人型の土塊が、ズルズルとイネスに近寄って行く。
サファイアはイネスを抱いて、ジリジリ後ずさった。
一体何が起きているのかわからず、レスラカーンたちは立ち尽くしている。
サファイアは彼らを置いて逃げるわけにも行かず、身体を崩しながらにじり寄る人形を見据える。
イネスは大きく息を付き、立ち尽くすレスラカーンに目をやると我に返った。
立ち向かわねば! 僕も! リリ、君も戦っているんだ!
「サファイア、ごめん。」
サファイアの胸をドンと押して、泥人形に飛びかかる。
「ふざけるな! 偽物! 」
バッと拳を打ち込むと、泥人形の頭が吹っ飛びその場に崩れ落ちた。
「はあ、はあ、はあ、偽者め! 」
少年が呆れたように首を振る。
大皇の寝具を踏みつけ、ベッドを越えてくるとイネスの前に立った。
「おやおや、ひどい巫子だ。
彼はずっと待っていたんだよ、君が来るのを。
誤解しているようだから教えてやろう。
彼も正真正銘のヴァシュラム殿だよ、巫子殿。
それは君もわかっているだろう。
知らなかったのだね?
彼はすでに2の年前からリトスに分かつ身体を置いていた。
リトスに巨大な神殿を作り、居を移す計画を立てていたのだ。」
「居を、移すだと?精霊王が?」
レスラカーンが思わず声を上げる。
少年がクッと笑って彼を向いた。
「さて、何が起こっているのかわからない顔だね、レスラカーン。
そうだよ、君は勘違いしている。
私にとって精霊の聖地などどうでも良くなったのだ。
老いた身体さえ、どうにも出来ない精霊王を、崇めて何とする。
だがね、先日彼は言ったのだよ。
願いを叶えてやろう。その代わりに自分の願いも叶えよと。
だから、彼がこれほど力を消耗して、身体が土に戻ってしまったのは私のせいなんだ。」
少年が、目を細めてレスラカーンをのぞき込む。
「願い、とは…… 」
レスラカーンが、目を開いて真っ直ぐにあさってを睨めつける。
少年が、ニッコリ笑って思ってもなかったことを告げた。
「私がリトス大皇である。
そう言えばわかるかね? レスラカーンよ。
交換条件はアトラーナの掌握だ。
そして他の神殿を取り潰し、地の神を唯1つのリトス大神として崇めよとね。」
ライアが、その瞬間彼の前に出た。
左右を2人の兵が守る。
「 イネス! 」
レスラカーンが彼を呼ぶ。
しかし、イネスの身体はピクリとも動けず足下の崩れた土塊を見ていた。
「 ヴァシュラム様! 」
サファイアが止めるように叫ぶと、イネスの腕のリングが輝き、パンと弾け飛ぶ。
「 い、いやだーーーー!! 」
イネスの絶叫が響き、ビクンと身体が跳ね上がった。
土塊が吹き飛び、イネスの足下にコロコロと見慣れた身代わり石が転がって行く。
サファイアが絶望した顔を上げてイネスの顔を見た。
「 イネス様! 」
イネスの容貌が、まるで別人のように険しく、まるで獣のような目つきに代わり、サファイアを睨めつける。
そして、足下の身代わり石を彼の方に蹴った。
「大義である。
イネスが欲しければくれてやろう。
殺したくば砕けば死ぬ、どうでも良ければ捨てていけ。もう必要の無い物だ。」
イネスの顔で、イネスでは無い者が冷たく告げる。
うち捨てられたイネスの心に、サファイアは愕然と立ち尽くした。