519、揺れ動く心と覚悟
ヤヌーシュが、物思いにふけりながら王家の馬車を目指す。
「チナ、先ほどのことは、他言無用だ。」
「仰せの通りに。」
「死んでも喋るな。」
「仰せの通りに。」
ひときわ大きな、大皇の馬車の前に来ると大きな息を付く。
兵を横目に、サッと中に入った。
「ヤヌーシュでございます。」
右のクッションには弟の第3王子が座り、中央に下がる紗の向こうには
大皇が横たわるベッドがあり、その横には巫子の影が透けて見える。
ヤヌーシュは膝を付いて頭を下げ、目を閉じた。
「会って、参りました。」
「どうか。」
御簾の向こうから、枯れたようなかすれ声が聞こえた。
「はい、目が見えぬ以外は普通の青年かと思います。」
「普通とは? 」
「何の取り柄も無く、ポッと会いに来た甘い考えの民でしかありません。」
巫子が、こちらを向いて手を上げた。
「汝の心に暗い影が見える。リトス大神への信仰が薄れている。」
「とんでもございません。
私の心はリトス大神への信仰のみで出来ております。
側近の青年にひどく頼っている印象を受けました。
目が見えぬ不便がもっとも弱点かと思われます。」
「元より。利はあるか。」
そんな事はわかっている、いらだちを見せて声がため息交じりになった。
「目の見えぬ役立たずなれば、利は無いでしょう。ですが、王家の1人である事を利用するなら利はあるかと存じます。」
「元より。諾である。」
「小賢しい、下がれ。」
どちらの言葉かわからないかすれた声で、言い捨てられた。
「 はい 」
クッションに座る弟をチラリと見る。
自分を押し殺してじっと座り、自分から一言も声を出さない。
ヤヌーシュと目を合わせると、険しい顔で目をそらした。
母に格下げられたとき、上に上がったこの弟にあざ笑われたのは、よく覚えている。
悔しくて泣いたが、下げられなければここにいるのは自分だった。
本当に、何が幸いするかなんてわかった物じゃ無い。
ヤヌーシュが自分の馬車に戻っていると、側近のラユールが横を歩き始めた。
彼は貴族の子息で子供の頃から一緒にいる気心の知れた友人でもある。
「私が来るまでお待ちくださいと申しました。」
「良い、何かあったらチナが盾になる。
大したことじゃ無い、ただ、客と喋っただけだ。」
「客? でしょうか? 」
「ははっ、客の扱いしろと言う、信じられぬわ。」
笑い飛ばしながら、王族のもう一つの馬車に乗る。
ヤヌーシュは中で早速人払いして、ラユールにレスラカーンのことを話して聞かせた。
その姿は妙に楽しそうで、ラユールは少し寂しいような複雑な気持ちで聞いていた。
少し離れた場所で、パドルーが皿に水を入れ、水月をつけて水鏡を見る。
水鏡には、繋げた水差しからイネスと楽しそうに話すレスラカーンの姿が見える。
風に舞い上がるメイドドレスのすそを押さえ、水月を取り出し考えた。
王城の水鏡には、すでに状況は短く連絡した。
水鏡の水が揺れ、水の巫子イルファが姿を映した。
パドルーが頭を下げ、左手で目を隠す。
「 我が君 」
『 随分落ち着いた物ね。 』
「はい、不安の中、互いに支え合っていらっしゃいます。」
『 まったく、無謀よ、無謀。
大皇はお爺ちゃまでいい方だったわ。
信心深い方だったから、イネスがいれば話は聞いてくれると思うけど。
聖地と信じるアトラーナで、血を流すことはしないと思う。
でも1つ気になるのは……、何かしらね、リトス大神って。
神気が見えないし、騙りだと思うけど、調べさせる余裕がない。 』
「心して対応いたします。」
『 有事にはお前の目を通して見ます。 』
「この上ない喜び。」
水鏡が消えて、水面に空を映し出す。
天を仰ぎ後ろを見ると、共に来た戦士が2人立ち尽くす。
レスラカーンと巫子の警護に来て、あの兵の多さに守り切れないと思った。
最善の策を考える2人に、下がってついてこいと合図したのはこのパドルーだ。
迷う自分たちに、他の2人の兵は行けと合図した。
恐らく、同じ事を思ったのだろう。
自分たちは死んでも、レスラカーンだけは守り抜かねばならない。
イネスがいれば何とかなるだろう。
まさか大国の王家が目の見えぬ隣国の王子に手を下すような、卑怯なことも考えられぬ。
だが、もう一つ補償が欲しい。
何が起きるかわからないなら、頼るべきは精霊の力だ。
「付いてこいと言った、あなたを信用する。
我らは何としてもレスラカーン様をお守りしなければならない。」
「わかっている、あの人数では何人いても守り切れぬ。
策はある。だが、恐らく彼らの中には魔導師がいるだろう。
大っぴらに私が動くと感知される恐れがある。力を貸してくれ。」
「承知した、急ごう。
日が暮れる前に準備しておきたい。」
離れて安全なところにいても、身体は冷水を浴びたように生きた心地がしない。
3人は大きくうなずき合い、心を合わせるように手を取り合った。
日も傾き、空が次第に赤く染まり始める。
鳥が森へと帰り、夕げに乾燥肉と豆のスープを頂いて、1日が漫然と終わってしまったと途方に暮れる。
イネスはレスラカーンを振り向き、彼が王子と会ったあと、じっと考えるようになった事に気がついていた。
それは、自分の予感と同じだと思う。そう思わせる、王子の忠告だった。
イネスは彼の前に座ると、思い切って切り出した。
「なあ、1度戻った方が良くないか? 今なら何とでも理由をつけやすい。」
「いや、現状は待つしかない。
ライアが言った白い輝きと言うのは、恐らくリリス殿が悪霊に打ち勝った印だろう。ならば、ここは私が押さえねば。
軍隊に動きが無いのは、我らの話次第で進むか後退かを決めるつもりかもしれない。それはいい傾向だ。
だが、この軍が出たことで、他の隣国もすでに動いたと思う。
大国が動くと、途端に精霊の国に牙を剥く事への壁が下がる。それは領土の奪い合いの始まりだ。
だが、今なら間に合う。
この軍隊を引き上げさせることが重要だ。」
「それが出来ると思うのか? 考えが甘くは無いか?
俺はあの王子の言った、大神の巫子と言うのが気になる。
大皇に信じさせて思うように操っているなら、これまでの信心深い姿は無いかもしれないぞ? 」
イネスが落ち着き無く、心がざわめくのか指を噛む。
手探りでレスラカーンがイネスの顔に手をやる。
「巫子よ、あなたは帰った方が良い。」
驚いて、イネスとライアがレスラカーンに寄り添った。
「レスラカーン様、なりません。イネス様は、1つはあなたをお守りする為に、ここにいるのです。」
「私は王家の男子だ。常に覚悟がある。人質になったら死を選ぶ。
だが、あなたは万人の心の支え、地の巫子だ。」
「なにを…… 何を言うんだ。」
「状況が変わったかもしれない。
私は…… 」
コンコンコン
ハッと、皆が顔を上げた。
「使者がおいででございます。」
外の兵が声をかける。
ライアがドアを開けると、松明の明かりに照らされ、従者らしき青年が静かに頭を下げる。
「お待たせして申し訳ございません。
大皇様がお呼びでございます。」
大きく深呼吸すると、レスラカーンがうなずいた。
「お待ちしておりました。参りましょう。」
手をギュッと握り合い、皆が腹を決めて立ち上がる。
その時が、とうとう来たのだ。