511、爺の正体はなんだろうね
霞の中で、ルクレシアが呆然と立ち尽くす。
ここは? ここは黄泉なんだろうか?
だったら、 だったら、 彼が待っていてくれると、
そう、言ってたのに。
ランドレール!
叫んだつもりなのに、声が出ない。
僕を、 僕を、
一人にしないで。
ランドレール
涙を流しながら白い霞の向こうを見つめる。
ふと、手を誰かが握った。
小さな、獣のような手が僕の指を握りしめる。
泥に汚れた犬と人を足したような顔で、小さくささやくように、懸命に僕に訴えかける。
“ なんでもします、だから、お願い。 捨てないで ”
そう言って、お腹を空かせてガリガリの子供だった君。
いいや、違うよ。今の君は違う。君はそんな子供時代を乗り越えたじゃないか。
ラティがニッコリ笑って、ぐんぐん成長していく。
きれいななりで、戦士の顔して、しっかり僕の手を握る。
“ ルクレシア! 主様! ”
僕の手を額に当てて、まるで忠実な僕の、僕の戦士のように。
“ 主様、私が、お守りします! ”
そうだった。
僕の頼もしい、精霊の子。
僕は、君を見るまで精霊なんか、信じちゃいなかったよ。
アトラーナって国は、ろくな国じゃない。
僕がそう言うと、君は寂しそうに言ったっけ。
「僕なんか、この国じゃ無きゃ、 生まれてこなかったのに」
ああ、違うんだ。君を否定したわけじゃない。この国のことさ。
そうなんだ。君たちミスリルこそ、この国だから生まれた存在。
君たちは、アトラーナの在り方を示す道しるべ。
ラティ、君がいるから、神殿の存在意義が証明される。
僕のような、精霊の存在を知らなかった者にも見せつける。
この国には、精霊がちゃんと存在しているということを。
精霊の国…… なんだ、 ここは
生まれてきてくれて、ありがとう……
「ラティ…… 」
夢を見ていたルクレシアは、ゆっくりと目を開いた。
一体どこなのか、フカフカのベッドに落ち着いた装飾の部屋がいつか見たような気がする。
「お気がつかれましたか?」
傍らで、爺が水にハンカチを浸し、絞ってルクレシアの顔を拭く。
「冷たい水で申しわけありません。
湯を沸かす場所が使えなかったので、水だけ汲んで参りました。」
「いや、いいよ。気持ちいい。」
「水を飲まれますか?屋内にあった水を汲みましてございます、
毒味は済ませました。」
「毒味なんかいらないよ。うん、ありがとう。」
窓からの景色は、見慣れた城の壁だ。
庭は荒れ果てて、見る影もない。しかし、確かにここは王の居住棟だ。
「坊ちゃまは王子のおそば付きでしたな。
すると、あちらの執務棟ですかな?」
「ああ、 そうだよ。」
ふと、小姓の少年達のことが思い浮かんだ。
もう、逃げていないだろうか。
だったらいいけど、彼らは貴族として生まれながら、王子に差し出されているようなものだ。
見目の良い者が選ばれ、支度金を渡されて金で買われるようにやってくる。
若い王子が間違いを起こして後に跡目争いを起こさない為の、女の代わりもさせられる。
よほど気に入られなければ、昇進などあり得ない。
王子がランドレールに乗っ取られてから彼の性癖が知られるようになって、花売り小姓と影で呼ばれていた。
彼の性の相手をしていたのは、僕だけだったのだけれど。
それまでの王子は、本当に性にうとい地味な少年だったらしい。
「爺、向こうの棟に行ってみたい。」
「承知しました。中を通って参りましょう。
中はそれほど荒れておりません。」
「うん、小姓の子達が気になるんだ。」
「ほう、坊ちゃまの下で働いていた者達で? 」
「そうだね、まあ、そんなものさ。とっくに逃げてるだろうけど。」
ベッドを降りて、爺の前を歩き出す。
見慣れた廊下はまるで何ごともなかったように変わりない。
兵が部屋を一つ一つ開けて中を確認しては、ケガ人などいないかを声かけ合っている。
その横を通り過ぎると、渡り廊下に出ようとした。
が、そこには流れてきた草木が渦を巻いて引っかかっている。
とても出られそうにない。
「坊ちゃま」
「通れないようだ、上に…… 上はなくなってるな。どうしよう。」
「坊ちゃま、爺が前を行きます故。ご心配なく。」
爺が前に出ると、腰に差していた杖を取り出し、両手でスッと伸ばした。
その杖をトンと地に突くと、まるで海をかき分けるように道が開く。
2人で歩きながら、ルクレシアがクスッと笑って問うた。
「爺は魔導師なのかい? 」
「爺は坊ちゃまの爺でございますとも。
それ以上でもそれ以下でもございません。」
「ふうん、で、爺の年は一体いくつなんだろうね? 」
「おお、恐ろしや、その問いが来るのを一番畏れておりました。
何しろ、トンと物覚えが悪く、いくつなのか数える事も諦めましてございます。」
ルクレシアが、クスクス笑って爺の手にある杖を指さす。
「爺の杖は不思議だね。
美しい杖だと思っていたけれど、意志があるみたいだ。
僕は精霊は信じてなかったけどさ、ああ、この国はきっと、精霊があふれているはずなんだ。見えないのが残念だよ。」
「坊ちゃま、精霊は、めっきり少なくなってしまいました。
それはこの国の人間に、精霊を信じない者が増えたからでございます。」
「精霊が減ったのは人間のせいなのかい?
くくっ、ひどい責任の押しつけだ。」
「いいえ、そこに精霊が存在するという人間の認識が、精霊を存在させるのです。
坊ちゃま。精霊は、人間が信じなければ、存在出来ないのですよ。」
ルクレシアの足が止まった。
顔を上げ、惨憺たる状況の中庭を見つめる。
「この状況を見せつけられて、信じないとかあり得ないけどね。
今となっては。」
「長く生きて参りましたこの年寄りには、この状況はあって当然のことと存じます。
精霊にとって、人間にないがしろにされ、存在を否定され、消えよと言われたと同じ。
だがそれに加担した精霊がいるのも事実。
欲にまみれて良かったことなど、何一つないのです。」
珍しく、爺が良く喋る。
つまり、この事はそれほど大切なことなのだろう。
必ずこの自分に話しておきたいことなのだ
「ククッ、欲なんかクソ食らえだ。欲にまみれた奴なんて、死ぬほど見てきたよ。」
爺が片眉を上げて首を振った。
「坊ちゃま、貴族にあるまじきお言葉。
家督をお継ぎになられる前に、厳しく貴族教育をお受け下さいますように。」
「だから、僕は家なんか継がないんだってば。」
「ほっほっほ、そうでございましたな。」
「本当だよ? 爺、無理強いしても無駄だからね? 聞いてる? 」
全然聞いてない爺にムスッとしてると、爺が本館のドアを開く。
「どうぞ、我が主。足下にお気をつけ下さい。」
ルクレシアはため息を付くと、顔を上げて王子の部屋がある執務棟へと入った。




