496、黒い精霊
屋根が剥ぎ取られた瞬間、まるでそれから目をそらすように日が陰った。
屋根を取り払うと、驚くほどに黒い澱は謁見の間を満たし、まるで真っ黒のプールのような状況だ。
リリスには、その大きさに今の自分には無理だと一瞬で悟った。
黒い澱は波を立てて渦を巻き、中央で立ち上がり、やがて真っ黒の人型が泥に伏せて背中が上がってくる。
それはやがて立ち上がり、黒い精霊の姿で身を起こすと苦しげに身もだえしたあと、ダクダクと身体中から澱を垂れ流しながら両手を空へと広げた。
「赤、下がって!何かするつもりだ!赤!」
「赤様!どうか私の背に!」
残る風の吹き荒れる中、屋根のヘリから身を乗り出して見つめるリリスに、ホムラが横にかしずく。
だが、リリスは黒い精霊を凝視して身動き一つしない。
ルクレシアがふらりと立ち上がり、屋根を歩き出す。
マリナがそれを止めるように指さした。
「まだだ、まだ出るときでは無い!」
ルクレシアは、宙をボウと見つめたまま、棟を越えて黒い精霊がチラリとかすかに見える位置まで歩みを進め、ゴウカに止められると爺に抱きかかえられ元の位置へと引き返させられる。
「坊ちゃま…… いや、何者か知らぬが、しっかりされよ。」
「 私の…… 小さな…… 」
一粒の涙が、彼の頬に流れた。
あと一息だ。
何か、彼の胸に沸き起こる感情で、彼を揺さぶり起こして欲しい。
今のままでは、行動さえ起こせない。
それでも、少しずつ、彼は目覚めている。表に出てきている。
ルクレシアの夢の中に住んでいた彼は、きっと何かを願ってルクレシアの中に入り現世に戻ってきたのだ。
どんなに待っても黄泉に来ない恋人を、待ちくたびれて。
黒い精霊が、結界の薄い天を大きな槍でまた貫き完全に突破すると、リリスの立つ場所まで槍を飛ばす。
リリスはそれを冷たく見つめて、すでにもう、謁見の間の結界が、消えていることに気がついていた。
遅かれ早かれ、この闇落ちした精霊はここに留まるつもりは無いのだ。
だが、屋根を払って陽光の下に出せば、幾分力を抑えられるのでは無いか?というもくろみは、あっさり崩れた。
マリナと力を合わせれば……
いや、駄目だ。
封じるにも、駄目だ。あまりに大きい。
何でこんなに黒い泥があふれている。
闇落ち精霊の力と、火の指輪の力を帯びたランドレールは相性が悪いはずだ。
血を吸っても、変化は無かった。血は宰相のもので、ランドレール自身は恐らくこの黒い泥が本体だ。
まさか?
そうか、いや、
もしかして? いや、違う、
いや、きっと、そうか、 そうだ。 恐らく。
死人の身体から解放されたランドレールには、精霊の身体は居心地がいいのだ。
しかし、反して精霊には、ランドレールとは相性が悪い。 恐らく。
それなら、この状況は説明が付く。
リリスの中で、結論は出たものの、まだ、力の元の先がわからない。
何を糧に、ここまで大きくなったのかを、突き止めなければ。そこに突破口を探す。
「ククククハハハハ!アハハハハハハ!
見ヨ、 見ヨ!! ナニガ日ノ巫子カ!! 笑止! 風ナド、私ノ驚異二ナラヌ!
食ッテヤル!!コノ世ノ人間、オ前ノ前デ、スベテ食ッテヤル!!」
突風の中で、黒い精霊から真っ黒な数十本の細い糸が伸び、城下に走る。
マリナが驚き、その道を探り愕然とした。
「糸が見えた!!なんて事だ!城じゃない?! 城内じゃ無い!外だ!
この糸は触媒がある!!簡単に切れないぞ?!」
マリナが上空へ飛び、振り向いて、城から城下へと広がる先を見て戦慄する。
赤黒く不気味に輝き、町全体を一気に、命を吸い上げようとその糸が見る間に太くなってゆく。
それは、ランドレールの血を付けた割れた花瓶のかけら。
カレンが命じられ、町のあちらこちらに埋めて回ったかけらが触媒となって、町全体を網の目のようにからみ取るものだった。
「 マズい、 マズい! 」
ゾッとして、マリナが耳を押さえて悲鳴を上げる。
「 これは! 街の人間を餌にしてるぞ! 赤!!
赤、 赤! 城下が死の町になる!!」
リリスが目を見開き、思った以上の現状に城下へと伸びる糸の先の空を見る。
リリスの目には、沢山の人々が暮らす街上空が、真っ赤に染まって見えた。
遠くから、津波のように苦悶の思念が押し寄せる。
ゴゴゴゴゴゴドドドドドドドドォォォォォォ
ゴゴオオオオオオオオオオオ …………
一斉に上がった悲鳴が、地響きを上げた。
マリナが震える手で、耳を押さえる。
それが何の意味も成さない精神体なのに、彼の顔は初めて見るような恐怖の顔で、引きつって見えた。
「 ひ、ひいいっ!! イヤだ! イヤだ!!聞きたくない!!
聞きたく無いっ!! 赤っ!! 赤ーーー!!
リリス!! 助けてーーーッ!! 」
苦しむ人々の声が、彼の耳には聞こえるのだ。
赤黒く輝く黒い泥が見る間に容積を増し、壊れた結界を乗り越え一気に謁見の間からあふれ出した。




