486、巫子では、なくなったのかもしれない
イネスが部屋に戻り、両手で顔を覆った。
サファイアが彼の背後で、無言で目を閉じる。
それは最近のイネスが、思い悩んで1人になりたい時間を一番欲しがっているからだ。
彼の思い悩む原因はわかっている。
彼はヴァシュラムとの糸が切れたと告げた。
地の神との糸が切れたのだ。
地の巫子が。
戦うリリスを前にして、一番力を貸したいときに手を貸せない辛さ。
もう、 巫子では なくなったかも しれない。
足下の揺らぎが彼を不安定にしている。
リリスはそんな彼にかける言葉が見つからず、サファイアは黙って首を振るしかなかった。
イネスが自分で、自分の身の回りのものを背負い袋に入れ始める。
慣れない事にどうすればいいのかわからず服を丸めて入れていると、サファイアがその手を止めて受け取り、畳んで入れ始めた。
「サファイア、お前は神殿に戻れ。私は1人でいい。」
「なりません。」
「いい、いいんだ。ちゃんとするから。1人でもちゃんとする。」
袋を奪い取ろうとする手を止められ、サファイアが優しくギュッと握った。
「どうか、やらせて下さい。」
「頼むから……頼むから、神殿に戻ってくれ。
私は……死んだと言えばいい。
それでいいんだ。巫子はあと3人いる。
私は、最後に、自分に出来ることを……やって、そして平民に戻るから。」
ポタポタ涙が落ちる。
あれほど自信に満ちていたイネスが、これほどの絶望感を抱えたことなどないだろう。
どうすれば彼を支えることが出来るのか、サファイア自身もずっと考えている。
何度も、リリスの言葉が頭を巡った。
『 私より、サファイア様はずっと横にいて支えて下さったのです。
それはイネス様にとって、兄弟であり親のような物でしょう。
力を感じない、それは私にもわかります。
でも、私にはわかるのです。
イネス様は巫子であると。
でも、それを私が言っても、薄っぺらの同情の言葉にしかならないでしょう。
それは、信頼関係が取れていないからではありません。
イネス様は私の心の兄なのです、頼りになる兄になりたいイネス様には、弟の言葉は、時にとても辛い物になります。
ですからサファイア様、どうか、どうか、兄様をよろしくお願い致します。
私には時間がありません。あなた様に託すしかないのです。
サファイア様、どうかよろしくお願いします 』
頭を下げるリリスの姿が思い浮かぶ。
巫子である事に変わりが無い。
それを教えてくれただけで、本当に心強い。
恐らくは、巫子ではなく、地の神の方に異変があったのだ。
一体何があったのかわからないが、何かがあった。そのことだけがはっきりした。
「イネス様、あなたは本当の巫子なのです。
あなたこそが、本当の巫子なのです。
セレス様はヴァシュラム様の伴侶、奥方のような御方様、他の巫子はセレス様の為に、そしてあなたの補佐に送られた地龍なのです。
地龍には真似事は出来ても、あなたの代わりは出来ません。
リリス様が仰いました。あなたは確かに巫子なのだと。
でも、地の神の力を感じないことも確かだと。
恐らく、ヴァシュラム様の方に何かあったに違いありません。
時を待つのです。
それまで私がお守りいたします。そのためにサファイアがいるのです。」
「リリが……私はあんな大口叩いて、
兄に任せろなんて、こんな、こんな何の力も無くなった私が。」
「リリス様は、あなたを兄だと仰いました。
兄を私に託すと。
あなた方は、小さな頃から身分を超えて、強い絆で互いを支え合っておられた。
私は、イネス様、 私には、お二人のそれが、ひどくまぶしく、うらやましく思っておりました。」
本当の兄弟であっても、戦わねばならないときもある。
それがミスリルの定め。
仲のいい友人を超えて、兄弟の絆を持ち、支え合える姿はうらやましいと思っていた。
だからこそ、リリスが身分の差から鞭打たれたと聞いたときは、悲しく悔しいとさえ思ったのだ。
イネスがズズッと鼻水をすすって、手で涙を拭く。
サファイアが懐からイネスの世話用に潜ませている布を一枚取り、彼の涙をそっと拭き取り鼻を押さえる。
思い切り鼻をかみ、拭き取って、その布をたたんで袋に入れ腰のバッグの外ポケットに入れた。
長年そうしてきたのだ。
イネスが自分で出来ることは少ない。
巫子は神の子、仮に死ぬ前に代が変わっても、自分は死ぬまでお仕えする。
その覚悟でお世話している。
「サファイア、私の判断に間違いは無かろうか?
リリスはあんなに勇敢に戦っているのに、俺は自分が不甲斐ない。」
「ならば、リトスの大皇陛下にお会いなされませ。
そのように不安な顔ではなく、自信のある顔で。
我ら巫子が手を合わせて立ち向かっていると。
まだ話し合いの余地があるのは、大皇陛下にも迷いのある証拠。
あちらには戦える魔導師が幾人もおります。
手を借りることで、リリス殿の助力にもなりましょう。」
イネスが目を見開き、大きくうなずいた。
サファイアの手を取り、ギュッと握りしめる。
「ありがとう、サファイア。」
「あなた様のお力になれたときこそ、このサファイア、至上の喜びを感じます。
火の神官ほどに強い力を持ってはいませんが、私もミスリルとして力の限りお守りします。」
「ミスリルとしてじゃないさ、友人としてだろう?
サファイア、私はお前がミスリルだなんてすっかり忘れていたよ。」
ウフフッと笑って、キュッと顔が締まった。
「よし、準備出来たら行くぞ。地の巫子として、俺は俺の仕事をする!」
「その意気ですとも、お供致します。」
「よしっ!」
いつものイネスに戻って、サファイアがホッとする。
2人にとって、大きな谷を2人で乗り越えた、そんな堅い信頼感を感じていた。




