466、炎の犬
「坊ちゃま、村に入りました。風の館はもうすぐでございます」
爺が、窓から景色をチラリと見てルクレシアに告げた。
窓から見ても人の気配は無く、しんとした寂しい村だ。
うなずいて、ルクレシアがため息を付く。
「爺、外出したら坊ちゃまは駄目だよ」
「おお、年のせいか、うっかりですな、若様」
「僕なんか何と呼んでもいいんだけどさ。
爺は来たことがあるのかい?」
「はい、旦那様のお供で風様の元に。ずいぶん昔ですが」
「あれは持ってきてくれたかい?」
「はい、もちろんでございます」
爺が、内ポケットから重いだろうその小さな袋を見せる。
それには、宰相が着飾っていた装飾品が入っている。
城を脱出したとき、ランドレールが彼に渡した物だ。
この巫子によると、宰相の息子殿も逃げてきているという。
盗んだと言われるかもしれないけれど、なんと言われようと息子殿に会ったらまずこれを返そうと決めている。
気が重い、彼の息子になんと言えばいいのか思いつかない
恐らく、父親がどうなっているのかを聞かれるだろう。
彼は、あの身体を自由に使っていた。
宰相の人格など、どこにも見えなかったのだ。
「な!なんだありゃあ!」
突然、御者のダグラスが大きな声を上げた。
急に馬車のスピードが上がり、馬車の小窓を開けて叫んだ。
「得体の知れない物が追ってきます!
何かにおつかまり下さい!」
揺れる馬車の中で、ルクレシアが窓を見る。
「がう!」
それは、馬車と変わらぬ大きさの巨大な犬。
その犬は走りながらブルリと震え、身体からボウと火を噴き、炎に包まれた。
そして真っ赤な目をギョロリと向けて、道を外れて併走し、ルクレシアを窓からのぞき込んでくる。
「な!なんだこいつは!」
「坊ちゃま!お下がりを!」
赤い火に照らされ、ルクレシアが驚いて、顔を遮り身を庇う。
爺が彼の身体を内に引き寄せ、瞬時にドアを開けてステッキで目玉を突いた。
ジャッ!
「ぎゃんっ!ぎゃんぎゃんっ!ぎゃんああ、ああ、あああ!!」
突然の攻撃に驚き、犬は突かれた目から煙を上げて下がっていく。
「お待ちを!あれは火の使いです!お待ちを!あっ!」
巫子が慌てて立ち上がり、ガタンと跳ね上がった拍子に座席の間に倒れた。
ルクレシアが倒れる彼の身体を抱き寄せて、外の様子をうかがう爺の姿を見上げる。
駄目だ、人外に人間が敵うわけがない!
馬車が壊れてひっくり返ったらみんな死ぬ!
「ダグラス!馬車が壊れる!止めよ!」
「でも坊ちゃま!」
ルクレシアが叫び、外でダグラスが振り返る。
「止めよ!化け物からは逃れられぬ!」
「そんな事、仰られても!!」
「止めよ!若様のご命令である!」
爺が、険しい顔で振り向くダグラスにうなずく。
馬車はスピードを落とし、そしてゆっくりと止まった。
「若、ここでお待ちください」
「爺、僕が……あれは恐らく僕に用があるのだ」
「なりません、ここでお待ちを。ダグラス、私に何かあれば逃げよ」
「わかった」
爺が馬車を降りていく。
火に包まれた犬は少し小さくなって激しく頭を振り、よろめいて痛みに戸惑っている。
ダンッと杖を突く爺に気がつき、煙を上げる片目をつぶり爺を威嚇した。
「いた、い、い、た、い、なんだ、なにを、した。わんわん、いたい、いたい」
「痛いか魔物、若に無礼を働く者は、たとえ精霊の使いでも許せぬ」
火を噴くような怒りの表情で、爺が犬を睨めつける。
犬は初めて感じる痛みに正気を失い、思わず爺に向けて火を噴いた。
「うがっ!ぼおおっ!!」
ゴオオオッ!!
『 犬さん、大切なお客様だよ 』
炎が爺に届く寸前で、犬さんがばくんと口を閉じた。
爺の前に、キラキラと光が瞬き、少年の姿が現れる。
その赤い髪の少年は、爺に丁寧に頭を下げた。
『 丁寧にお迎えするようにと迎えにやりました物を、イタズラ好きの子犬の無礼をお許しください。
どうぞ、お怒りをお鎮めください、守護者様。
実体ではありませぬ事お許しを。
初めてお目にかかります、私は火の巫子、赤のリリスと申します。
どうぞ、案内させます故、この犬のあとに御続き下さい。
館周辺には結界を張って、人の出入りを制限しております。
お腹立ちでしょうが、どうぞ犬のあとに御続き下さい 』
「若はそちらにご招待をいただき、わざわざこちらまで足をお運びになられたのですぞ。
礼を尽くしてお迎えになられるのが道理。この失態、いかがなされる。
我らは大切な若のご安全を思えば、ここで失礼するのが貴族としての返答と考えている」
『 ご身分、承知の上で申しております。どうかお許しを。
これは我が配下にいる者、つなぎ止めることはできず自由にさせておりますが、その行為は私を守る為のもの。
責は私にございます、今一度お考え直しを 』
頭を下げるリリスに、犬さんがまた失敗したことに気がついた。
身体の火をブルブルと払い、横に並んでちょこんと座りしょんぼり頭を下げる。
「ごめ、なさ、い、わん、いたい、いたい」
犬さんの目からはなかなか煙が消えず、小さくシュウシュウと音がしている。
リリスがその目に手を当て、優しく撫でると音が消え、嬉しそうにようやく目を開いた。




