444、父上、お父様、お父さん!帰りたい、帰りたい!
あの、気位の高い父が……まさか?
本当に?本当に?これは夢では無いのだろうか?
「 馬鹿者!!帰らぬなど許さぬ!!
若いときの過ちなど、犬にでもくれてやるがよい!!」
堂々とした、まるで王のようなその姿。
子供の頃から、まぶしく見てきた。その、風格。
大好きで、大嫌いだった。
だから、反抗した。
ザッと、ルクレシアの前に立ち、彼をけわしい顔で見下ろす。
「さあ、決めよ!帰ると言え!この、放蕩息子め!」
ルクレシアが、大きく目を見開いたまま身動き1つせず見つめる。
父が迎えに来るなどと、あり得ない。
「 ……ほん、もの? 」
ぽつりとつぶやくと、父はいぶかしい顔をして、そしてルクレシアをのぞき込む。
「本物か?などと申すお前は、実の息子か?
あの美しかった髪はボサボサで、ふっくらとしていた頬はげっそりこけている。
なんと言う姿だ。まるで老人のようだ。
お前の名は?言うてみよ!」
子供の頃に見ていた優しい父親の、その貴族らしくない表情豊かな顔に、ルクレシアが息を吐く。
家を出る頃、両親は自分が原因でケンカが絶えず、いつも険しい顔だった。
「ぼ、僕は……ルクレシア・ダンレンド……だ」
「よし、では私の息子だ。
ただし、お前の名はルクレシア・エルデスリア・ダンレンドだ」
父が、大きな手を差し出す。
ルクレシアは、その手にそうっと痩せて骨張った手を差し出した。
父が、その手を見て驚いたように大きく目を見開き、両手でガシリと握った。
袖をめくり上げ、愛おしそうに手をさする。
「なんと言う……なんと言う細い手だ。
私は、このような苦行を課す気は無かった。
あの獣人の子を諦めて、すぐに帰ってくるだろうと楽観していた。
何故お前はここまでして……侯爵家に生まれながらラクに生きる道を捨てて苦行を選ぶのだ。
何故、人に頼ろうと思わないのだ。
何故……困る者を見捨てられないのだ。自分を傷つけてまで」
父の声が揺れ、うるんだ目で見つめる。
こんな、こんな顔をするなんて、それをどうして……
どうして、あの時ラティにも向けてくれなかったんだ!
ふと、怒りがわいて目をそらす、たまらず毒を吐いた。
「家を出た人間に、誰が手を貸すと言うんだよ!
あんたはやっぱり貴族様だよ、甘いんだよ。
僕が、僕が……
何も出来ない、何も持たない僕が、
食べ物を得る。ただそれだけの為に、花街で何をしてたかなんて知らないだろう?!
男に身体を売ってたんだ!
一晩中、身体中にいやらしいことされて、男の喜ぶことをして、それでようやくお金をもらって食べてたんだ。
お金を恵んでもらって、嬉しかったよ、これで食べられるって!まだ生きていられるって。
あんたが飢えの辛さをわかるのか?
明日があるのか、明日生きていられるのかさえ、わからない不安感が!
そうしなきゃ飢えて死んでた!……死んでたんだよ!
朝が、どれほど待ち遠しかったか、あんたにわかってたまる物か!
夜の長さがどんなに辛かったか……あんたなんかにわかってたまる物か!
僕に触れたくもないくせに、汚らわしいと思っているくせに!さわるな!!
手を離せ!僕は1人で生きる!」
あふれる涙を拭きもせず、父が握る手を振りほどこうとする。
だが、父はしっかりと握って離さなかった。
「もう言うな!言葉で自分を傷つけてはならん!
知っているとも、知っていて言うのだ。
悪かった、私が悪かったのだ、謝って済むなら何度でも謝ろう。
すまなかった。
帰ってこい。
息子よ、私は良い父では無い。
それでも、ここで手を離すと生涯後悔することくらい知っている。
この手を離すくらいなら死んだ方がマシだ。
不甲斐ない父を許せ、何故あれほど、あのミスリルの子を許せなかったのか、自分でもわからない。
だが、わしは普通に貴族だったのだ。お前のようにそれを置いて別の物に目が行かない、凝り固まった枠にはまった貴族だったのだ。
ただただ、お前のなすことすべてが私の決めた道を外れていた。
私は従順な子を望む馬鹿な親だったのだ。
お前は1人の人間で、お前にはお前の道があるのに。
私は狭量であった、許せ。 許せ。 許せ」
「そんなの、許せない、許せないよ……僕は、地面を這いつくばって生きてきた僕は、全部を無かったことには出来ないんだ」
辛くて腕で、目をふさぐ。
父の顔が見られなかった。
「私のルクレシアよ、私の大切な息子。
帰るのだ、何も心配はいらぬ。
お前を悪く言う者あれば、生ある限り私が守ろう。
お前の父に任せるがいい、何しろお前の父は、侯爵なのだ。
帰ろう、逃げてはならん。あの家はお前の家だ、帰ろう!」
グイと手を引き、そのまま抱き寄せる。
ルクレシアの目から、涙がボロボロとこぼれた。
「帰りたい……」
「帰ってこい。頼むから帰ってくれ。わしも妻も、これ以上耐えられない。
お前がこれ以上苦しむなど、とても、とても耐えられない。死んでしまう。死んだ方がマシだ」
家を出て2年がたっていた。
それが20年にも感じられる。
その2年で、父は白髪が増え、深いシワが増えている。
心配してくれたのだと、ようやくわかった気がした。
「お父様……またお父様と呼んでも。私は戻ってもいいのでしょうか?」
「よい、あの家はお前の家なのだ。花街に戻るなど二度と言うな。
また考えの合わないこともあるだろう。だが、お前は私の大切な息子なのだ。
二度と家を出るな」
「 はい…… 」
「半獣のミスリルはどうした?逃げたのか?」
「ラティは……」
「あれは今、修業しております。主の力となる為に。
ルクレシア殿には、これからやることがあるのです」
後ろから、白装束の少年が頭を下げる。
侯爵が涙を拭き、抱いていたルクレシアを傍らに置いて頭を下げた。
「これは……地の神殿の。
このたびは三の巫子様にお世話になり、改めて後ほどご挨拶に。
……で、やること、とは?」
少年がニッコリ笑い、不気味にほくそ笑む。
「この国を、救って頂きます」
「は?」
思った以上の言葉に、ルクレシアは息を呑んで父親の服にしがみついた。




