442、逃げたい、逃げたい、帰りたくない、帰れない
自分の前を、白装束の子供が歩く。
何者かわからない、アデルよりもまだ若い、子供だ。
ゆったりしたシャツに百合の紋のベストを羽織り、ズボンから靴まで真っ白な白装束に、服よりも真っ白な髪を、肩で切りそろえた小さな少年だ。
この見慣れない作務衣のような白装束は、神殿の関係者が着る物だ。
神殿は、何故か和服のような服装をすることが多い。
火の神官たちも同様に作務衣のような白装束に頭巾など被り、顔には前垂れを下げている。
まるで白い黒子のようだ。
恐らくは、ヴァシュラムが異界から持ち込んだものだろう。
神は何故か白装束を好む。
このアトラーナで、純白の生地はとかく高級な代物だ。
この生地の出自は精霊の織物が多く、それだけに魔物避けの魔力がある。
少年は白装束の上に、白地に銀糸の刺繍で縁取りした、巫子服の上着でよく使う丈の長いベストを着けている。
だが、巫子が町中を普通に歩いてるなんてあり得ない。
それでも道を歩いているだけで、目立つ姿の少年に、皆頭を下げて道を空ける。
ルクレシアはウンザリした顔で、逃げたくなって足を止めた。
「逃げても構いませんよ、逃げても」
小さな少年が、ご丁寧に二度繰り返して振り向くとニッと笑う。
ムッとして、ルクレシアはまた歩き出した。
「ホホ、良きお覚悟」
「本当に行くのか?行ったって、門で追い返されるのがオチだ」
「すでに知らせを送っています。
どうぞ、何がありましょうと私は同伴するのみでございますので」
「そのまま城内に戻ると思ったのに」
「城内に戻られても、側近を解任されたあなた様に居所はございませんので」
「あんなもの、解任というものか。勝手な奴」
「あなたに今必要なのは、ちゃんとした休息と食事です。
若さで持っているが、今対峙しても無駄死にしか無い。
あなたにはまだ、使命がある。急がなくてはならない。
1日でも2日でもいい、ちゃんとした食事を取り、温かなベッドで1人、ゆっくり休まねばなりません」
「そんな夢みたいな事。もう2年以上、ゆっくり1人で寝た事なんてない。
物を食べても泥を食べてるようだ、ちっとも美味しくない。
僕は、ただ生きてるってだけなんだ。
だいたいお前は何者なんだ?」
「ホホ、私は……そうですね、地の四の巫子とでも」
「巫子が供も無しにこんな所をうろつくものか。
四の巫子なんて、聞いたこともない」
「供は居りますよ、あなたが気づかぬだけ」
空で大きな鳥が一声鳴いてゆっくり旋回している。
あれだというのだろうか、ため息が出る。
何か知ってるらしいが、何を言ってるのかさっぱりだ。
ズシリと重い、ランドレールに送られた装飾品の入ったポケットを確認する。
こんな物持ってたら、きっと盗んだと思われるだろうな。
指にある王家の指輪を撫でた。
彼がまるで婚姻の印のように薬指に付けた指輪。
「その指輪は大切にお持ち下さい。宰相家の大切な指輪です。
それは……」
「わかってるよ、ちゃんと返すから」
それは……もし、本物の宰相が復活しなければ、彼の、本物の宰相の形見になるだろう。
あの美しい息子に渡さねばならない。
町中を抜けると、重い足取りでそこを目指して歩き続ける。
緑の木立が目にまぶしく、嫌な思い出ばかりが思い出されてウンザリする。
家を出た頃、良くこの辺の木に隠れて夜を過ごしたっけ。
2人で小屋を建てようなんて、甘いだけの幻想で、自分がただのお坊ちゃまだと思い知らされた。
たった2年前のことなのに、遠い昔のようだ。
気が重くてため息を付く。
自分に帰る場所なんて無いのに、あの巫子アデルって奴は、パン1個と水差しの水だけで一晩森の中の小屋に匿うと、翌日食事も出さずに帰れと言った。
冗談じゃ無いと突っぱねても、何のそのだ。
あいつに耳はあるのか?
こっちの言う事なんて、半分も聞いてない。
使いをやると言われたのに、丸1日誰も来なかった。
何も無い床で寝て翌朝、ぐうぐう鳴るお腹を押さえて逃げようかと思い始めた所で、ようやくこの少年が1人でやって来た。
「僕は家を出たんだ、花売りまでしてた僕は、家の恥でしか無い。
恥ずかしいと罵声を浴びて追い出されるまでが確定だ。
僕の帰る場所はあの、花街さ」
「そして、また見ず知らずの男に身体を売ると?
おやめなさい、帰る場所があるかないかはまだわからない。
無いと決まってから考えるがよろしいでしょう。
それに……あなた様にはまだやることがあります」
「やること?そんなもの……」
「心に、問うのです。
あなたの中のもう1人が、きっと答えをくれます」
「もう1人?」
ワケがわからず顔を上げる。
その時、道の先に遠く、身なりのいい壮年の男が脇道から現れ、そして慌てた様子で戻ると誰かを呼びに行く。
脇道からもう1人、老年の執事服を着た紳士が現れ、2人でこちらへ急ぎ足で向かってきた。
「坊ちゃま!」
「坊ちゃまぁー!」
忘れたことが無い懐かしい声に、ルクレシアは呼吸を忘れて足を止め、思わずあとに下がる。
白装束の少年が、とっさにグッと手を掴んだ。
「逃げるな」
「あ、あ、あいたく、ない」
「老体にあれ以上走らせるつもりか?
お前のせいで死ぬぞ」
四の巫子だと言うその少年が、瞳孔を縦にして目を見開く。
ルクレシアは、ただおののいて首を振った。




