433、奈落のような暗闇の中で
はあ、はあ、はあ、
目が見えなくなったのではと、錯覚しそうなほどの暗闇を、ルクレシアの息づかいだけが満たす。
一歩先は階段が無いのかもしれない。
一歩先は奈落に落ちるのかもしれない。
延々続く暗闇の階段を足先で探りながら、緊張感に負けそうな心を奮い起こして先を進む。
『どこにも行かないで! 』
時々自分を責めるような声が、空耳に響く。
自分には何も出来ない、出来ないんだ。
目を閉じて、違うことを考えようと思う。
執事は死んだだろう。
ああ、優しい人だった。
自分にはどうすることも出来ない。祈ることしか。
ルクレシアはいつだって、そうやって諦めてきた。
ラティと家を出たときもそうだった。
ガリガリで、真っ黒に汚れて震えていた、半分精霊の子を森で拾った。
従者はいさめたけれど、自分はこの精霊の子を助けたかった。
ただそれだけなのに、父や母は嫌悪感をさらけ出してラティを罵る。
毎日が両親との戦いで、関係は以前にも増して険悪になり、言い争いが絶えなくなった。
つらそうで出て行くことしか考えない、痩せ細って目の落ちくぼんだラティとの板挟みで、毎日を思い悩んだ。
貴族の家に獣人を置くなどあり得ない。
後継ぎの彼に、父はこのままラティを置くなら家は弟に継がせると言い放ち、部屋を出て納屋で暮らせと言った。
何故、見た目ですべてを分けて考えるのか、心配する執事に別れを告げて、貴族という身分も捨て、ただただ広いだけでどこにも居場所がない家を出るしかなかった。
浮浪の生活は、生きるだけで毎日が戦いだった。
手持ちの金はすぐに尽きて、装飾品を全部売っても足下を見られて買い叩かれる。
働きたくとも、身なりの良すぎる自分と獣人の2人を雇う所なんて無い。
着ていたコートを追い剥ぎに遭い、カバンにあったケープコートを汚さないように大切にした。
カバンの中の服は彼の最後の財産で、大切に、大切に盗まれないよう細心の注意を払った。
空き屋にあった汚れた毛布で野宿して、朝日で目が覚め、ラティが生きているとホッとした。
服は何日も同じものを着て、雨が降ると空き屋や軒先で雨が止むのを待つ。
靴はボロボロにすり切れ、食事をエサに身体を狙う下卑た男から必死で逃げた。
食堂の老女が同情して、日が沈んだ後で行くと暗闇の中で食事を恵んでくれた。
暖かな食事が有り難くて、泣きながら食べた。
毎日が辛かった。
ラティはずっと泣いているし、声がかけられても怪しい仕事しか無い。
だからルクレシアは、飢えて死ぬのを前に最後の手段に出たのだ。
狙われるほどのこの身体。
ならば、と、花街に足を踏み入れ、仕切り屋に場代を払い自分の身体を商品にして売った。
それは思っていたより簡単で、考えていたより遙かに大変で危険だった。
それでも、貴族上がりの物腰の良さに上客が付いて、それでようやく最低限の生活が成り立っていた。
木の階段から石の階段に変わって、どこまでも続くかと思った段を降りて平地を歩き、やがて石壁で行き止まりになった。
それまで同様、指輪をした手で開くかと思ったが、押しても開かない。
どうすればそこが開くのかわからず、壁際の地面に座って途方に暮れた。
寒い。
閉塞した狭い地下通路で、風も無いのにひどく寒々しい。
たった1人、また路頭に迷うのかと思うと、恐ろしい気持ちにかられる。
何も無い。僕の全財産、服も帽子もすべて置いてきてしまった。
余程魔物のそばにいた方がマシだ。
最低限生きるすべがある。
こんな金の装飾品、僕なんかが売ったら盗んだと言われて縛り首だよ。
「馬鹿、わかってないんだから」
また、どこの誰ともわからない男に身体を売る毎日が始まるのかと思うと…… ラティが居ないことが恐ろしい。
自分の為に、自分が生きる為だけに身体を売ることに耐えられるだろうか。
縛り首の方が、余程マシかもしれない。
罪人の死体って、どうなるんだろうな……
怖い
ああ、誰も僕を必要としない。
いつだって、僕は生きることに翻弄させられる。
「もう、死んでしまおうか…… 」
疲れ果てて、考えることがだんだん億劫になる。
膝を抱え、目を閉じているうちに、いつの間にかウトウト眠ってしまった。
それは、まるで誰かの記憶のような夢だった。
ルクレシアは、子供の頃からその夢を良く見ていたので、ああ、まただと夢の中の誰かにまかせて、どこかの祭りのような市の中を歩いていた。
杖を突き、その男はゆったりした深い緑のローブを着て、麻の袋を背負い面白そうな雑貨屋をのぞいてみる。
かなり昔の時代だとわかる。アトラーナなのかもわからない。
街は見たことが無いほど雑多で人が多く、戦士や騎士も多い所を見ると城下のようだ。
怪しい薬のようなものを勧められ、慌てて逃げる。
アハハハと1人で笑っているその声に、いまだ何がおかしいのかわからない。
呼び込みの女にリンゴ籠を押し付けられ、笑いながら渋々金の入った袋を取り出し金を払う。
この男は、いつもこうだ。
イライラするほどお人好しで、そしてムカつくほどいつも笑っている。
まるで幸せの固まりのような、光にあふれた生き方は自分とは正反対で、いつもこの夢を見たあとは悲しくなった。
やがて行く先で小さな子供が2人、大きな葉っぱを何枚も敷いて、木の実や色んな形の石を売っていた。
男はその前で足を止め、必死で売り込む子供の頭を撫でると、1つのツヤツヤに磨かれた真っ黒な石を指さす。
子供は、大きな木のうろで見つけたのだと、必死で売り込む。
男は奮発して金の粒を子供に渡し、嬉しそうな子供が差し出す石を受け取ると、日の光を遮るように大切に綺麗な布に包んで懐に入れる。
夢は、今まではいつもそこで終わっていた。
だが、何故か今日は違っていた。
ルクレシアの心が疲れ切っていたからなのか、理由はわからない。
思い出したように、今のルクレシアを癒やすように先が続いた。




