424、心にたまった泥水を
リリスが登り慣れた裏山の森を、逃げるように駆け上るつもりが、思うほど体力は追いつかない。
足を上げたつもりが、足が重く身体が先走って何度もつんのめる。
「うあっ!」
やがて木を避け地を這った木の根に足を取られた瞬間、サッとホムラが身体をすくい取った。
「ハアハアハア、あー、ハアハアハア、鈍ってますね、身体」
「ご冗談を、普通の人間より大したものですよ。
いつもの開けた場所でございますな」
「ええ、あの場所は地水火風がそろって修行には適しています」
「この小さな山で火の?」
「直下に古い火だまりのあとを感じるのです。
国境まで続く山脈の端っこですが、ここは聖域なのですよ。天には日、地には清水が湧き、良い風が吹きます。
だって、風の精霊女王がここを選んだのですよ?」
「なるほど」
ホムラがヒョイと片手でリリスを抱え上げ山を登る。
リリスは彼の腕に座り、首に手を回して明るく笑った。
「楽ちんです!これでは修行になりませんね」
「赤様、巫子が鍛えるのは心と身体、身体は我らも補佐出来ますが、心は巫子様自身が鍛えぬとどうしようもないのです。
恐れながら……赤様は、我ら神官の存在に疑問を持っておられますな?」
「えっ、えーと、どうしてそう思われるのですか?」
ホムラは茂みでも、リリスに木の葉が当たらないように避けながら歩いて行く。
やっぱり慣れてるんだなあと思う。
マリナが抱かれていても、とても自然だ。
「わかります、あなた様は我らの存在に戸惑っておられる。
エリン殿の神儀に時間がかかっているのもそのせいだと思っております」
えっ!と、エリンがやっぱり前に出た。
「わ、私がお嫌いなのですね?」
胸に手を当てて、何だか不安そうに見ている。
「えーーー、僕は人を嫌いになったことなど有りませんよ?」
「そうですか、それも、何だか傷つきます」
何だかどうでもいい人のように聞こえて、ガッカリ、エリンが腰から仮面を取って顔に付け始める。
「えーーーっ!なんでですか?だから、嫌いになることは無いと言うのはですね。
んー、好きの度合いがこう、いっぱいあるわけで、エリン様は上から数えた方が早いです」
「はあ、そうですか。でも、私を神官にしては下さらないのですね」
「神官になると、後戻り出来ないのですよ?」
「後戻りする気はございません」
瞬時に返してきた。
「きっぱり言いますね、お覚悟が見えました」
「私は、生涯あなた様のお近くにお仕えしたいと思うのです」
ああ……
リリスがため息を付いた。
これで何度目だろう。その言葉を、そう言う言葉を真っ直ぐにかけられるのは。
「私は人が生涯かけたいと思うほどの人間ではありません」
リリスからは、判を押したような言葉しか出ない。
ホムラは腕に座る彼の足をギュッと握った。
「赤様、悲しいことを仰るな、我らは巫子の為に存在している。
あなた様が望まないとおっしゃると、我らは存在の意味を失ってしまう。
それはようやく居場所を見つけた我らミスリルに、どこへなりとも消えろという事。
我らには絶望のお言葉でございます」
ホムラがリリスに訴える。
リリスが息を呑み、口を押さえた。
自分はなんと言う、無慈悲なことを言い続けてきたのか。
お前達はいらないと、面と向かって言い続けられた彼らが、どれほど傷つけられたのか。
「ご……ごめんなさい、申しわけ……」
「赤様!」
言葉を詰まらせるリリスに驚いて、ホムラが彼を降ろすとオロオロして思わず一歩離れた。
「赤様、お泣きになってはホムラ殿が困ってしまいますよ?」
エリンが手ぬぐいを腰から取り、リリスに渡す。
「だって、初めてホムラ様から怒られました。ぐすっ」
「巫子様。せめて我らだけでも、様を外してくださりませ」
エリンの言葉に、涙を拭いて顔を上げる。
「でも……」
唇をかんで、心の枷を外そうと目を閉じた。
すると、小さく耳元でエリンがささやく。
「様を付けなくても、誰もあなたを怒る人なんておりませんよ」
リリスが動きを止めて、顔を上げる。
森の中で、精霊にささやかれたような気がした。
「怒られない、 でしょうか?」
「怒りません、喜びますよ」
ギュッと手を合わせる。
ホムラが、ワケがわからずそろりとリリスに近づいてくる。
誰にも言えないことが、2人には言える。サファイアに語った、あの事が。
恥ずかしい。恥ずかしくて、笑われるかもしれない。嫌われるかもしれない。
もうこうやって、一緒に過ごしてくれなくなるかもしれない。
でも、この、信頼出来るミスリルたちに、今、それを吐き出したいと思った。
「笑っても構いません、聞いて下さいますか?
私の心に、ずっと泥水がたまっているのです」
「はい、我らでよろしければ」
ゴクリとツバを飲んだ。
「む……かし、それは酷い、せっかんを受けていたのです。
身分違いの方と、親しくした為に。
何度も、何度も、ムチで打たれました。
母の目が届かぬ所で。何度も。
怖かった、恐ろしかったのです。
謝っても、謝っても、起き上がれないほどにムチで叩かれました。
怖くて、怖くて。
また叩かれるんじゃないかと、時々夢に見ます。
もう、彼女はいないのに。
僕は……僕は……こんなに弱い人間なのです。
ムチの夢を見ると、いつも泣いています、小さな子供のように。
偉そうな言葉を吐きながら、実はこんなみっともない人間なのです。
恥ずかしくて、必死で隠して、皆に知れる事が恐ろしくて。
皆が巫子と言う立場に傅くほど辛く、苦しくなります。
様が外せないのは、ただただ、ただただ、怖いのです。
僕は……こんな、弱々しい人間なのです。ごめんなさい、ごめんなさい」
震える両手で顔を覆うと、エリンがたまらずリリスを抱きしめた。
エリンは気がついていたのだ。
背中に残る傷跡を。
先日カナンが身体を拭いているとき、手伝っていて驚くと、カナンは彼にしいっと指を立てた。
それは、紛れもなく激しく打たれたムチの傷あとだった。




