398、ラティの心
「主様!ルクレシア様!ルクレシア!!」
白いたてがみを逆立たせ、ラティはどうすればいいのかわからない。
必死で揺り動かし、胸に耳を当てる。
ふと、以前花街で騒ぎがあって見に行ったとき、誰かが胸を何度も押していたら息を吹き返したのを思い出した。
ルクレシアの胸を見ても、どこを押せばいいのかわからない。
それでも、胸を何度も押してみる。
「息を、息をするのです!息を!」
ルクレシアは顔が真っ白で、ラティは胸を押し、身体をさすって必死に生き返ることを願う。
心が折れそうで、獣の目から涙がボタボタ流れて身体が震えた。
嫌だ!嫌だ!私のせいで家族の反対を押し切って、高い身分を捨てさせて、食べる物にも困る生活にさせて。
あんなお屋敷に住んでいたのに、野宿させて、身体まで売らせて、こんな所に来たのも自分のせいなんだ!
「僕はまだ、あなたに恩返ししてない!何も出来てない!
ルクレシア、息をして……!お願いだから……」
唇を見て、いっそ吹き込もうかと考える。
忌み嫌われるこんな顔で、いいのだろうか?
いや、何でも出来ることをしなければと、身体が動いた。
「申しわけありませぬ!」
ラティが大きく息を吸い、横からルクレシアの鼻と口を獣の口で覆って吹き込んだ。
ルクレシアの胸が大きく膨らみ、口を離すとスッと抜けていく。
何度も繰り返し、胸をグイグイと押した。
首の骨が折れていなければ、助かる!いや、お助けする!
何度か繰り返し、ドンと胸を叩く。
ドンッ!ドンッ!ドンッ!
「はあっ!フーーーーー!はあっ!フーーーーーーー!」
何度も何度も繰り返した時、スッとかすかに自発呼吸が生まれ、あっ!と思わずラティが声を上げた。
懸命に身体を揺り動かし頬を叩く。
「主様!ルクレシア様!!」
ゆらゆら顔が揺さぶられて、ふと、ルクレシアが薄く目を開けた。
「…………ラ……ティ…………」
「おおお!おおおおお!!良かった!ようございました!!」
ボロボロ涙がルクレシアの頬に落ちる。
思わず彼の頭を、ギュッと抱きしめた。
騒ぎに2人の小姓達が恐る恐るドアから顔を出す。
兵は呼ぶまで部屋に来るなと言ってあるので、入って良い物かその後ろで酷く迷っていた。
「お医者様をお呼びした方が……」
小さな声をかけてきた時、ルクレシアがうめいて、あまりの喉の痛さに激しく咳き込む。
「ごほっ!ごほっごほっごほっゲホッゲホッ!
はあ、はあ、はあ、……ラティ……捨て置い……いい、物を……」
息をつき、頭を揺り動かす。
土色の顔に、どんどん血の色が戻ってきた。
「ああ、ああ!良かった。ラティは生きた心地がしませんでした」
「大げさ……だな……」
ラティが首を振り、かすれて小さな声の彼の手を握り頬ずりする。
生きててよかった、良かった。
「あなたを失ったらラティは死にます」
「駄目、だよ……身体、起こして」
「大丈夫でしょうか?」
彼の手を借りて身を起こすと、ラティが背を抱きかかえてさすってくれる。
「申しわけありませぬ、私の不浄の口で息を吹き込みました。
どうぞ口をすすいでくださいませ」
ルクレシアが大きく何度も深呼吸して、息を整えると、ラティの首に手を回して引きつけ、自ら口づけをする。
驚くラティの牙を舐め、フフッと途切れ途切れに、かすれた声で笑った。
「お前は……不浄、などでは、ない。
その美しい、顔は……私の、自慢だ。……王子は?」
「はい、そちらでうめいてございます。
驚いたので、少々力が入りました」
ルクレシアが喉をさすり、大きく息を吸っては吐く。
頭がボンヤリする、目がかすむ。頭が痛い。
両手で顔を覆ったあと、ギュッと両手を握りようやく顔を上げた。
「構わない、死んで咎に問わるなら、それでいい。
どうせこいつは悪霊、王子が死んだら、僕の身体を乗っ取るのだろうよ」
「そのような事、ラティが許しませぬ」
「いい子だ、王子をベッドに運んでくれるかい?」
そっと駆け寄ってきた小姓達が、涙を浮かべてルクレシアの手を握る。
「心配致しました。本当に、ようございました」
声が震えている。
自分は、いつの間にかこの王子とまだ若すぎる小姓達の間のクッション役になっているのだろう。
「私は大丈夫だ。お前達は自分の部屋にお下がり、見た事は他言無用だ。
私は少し休む。王子が呼んだら代わりを頼むよ」
「はい、承知しました。では失礼します」
小姓達がホッとして下がって行く。
息を付いて、部屋に戻ろうとラティの手を借り立ち上がろうとするが、めまいで動けない。
あの子達を不安にしたくない気遣いで気丈に振る舞ったが、彼はさっきまで死にかけたのだ。
「失礼します」
ラティがルクレシアを抱き上げ、抱えて部屋を出ると、小姓が隣のルクレシアの部屋のドアを開ける。
ラティは、そっと寝台に横たえ、引き裂かれた服を悲しい顔で合わせ、布団を掛けた。
心配した小姓が顔を出し、水に濡らしたタオルを額に置いてゆく。
「ご気分が悪い時はお呼び下さい」
「ありがとう、お休み」
小姓達が出て行くと、ラティが彼の横で手を握って何度もさすった。
「大丈夫でしょうか、ラティは心配です」
「大丈夫だから、あいつを寝台に運んでおいてくれるかい?
私は少し休む」
「はい。すぐにおそばに戻ります」
かすれた声が痛々しい。
こんな所、何故来てしまったのかと悲しくなる。
部屋を出ると、両手で顔を押さえてしゃがみ込む。
死んでしまうところだった。
あの優しいルクレシアが。
理由も無く、何の落ち度も無い、あの大切な御方を!
ラティは、失ってしまうところだった恐ろしさに、王子の部屋を憎しみを込めてにらみ付けた。
殺して……やりたい。
この爪で、この牙で、引き裂いてやりたい!
純粋で、自分を捨てた親さえ恨まなかったラティが、大切な人を傷つけられて怒りに震えます。
それは初めて感じた、人に対する憎しみでした。