341、悪霊の澱(おり)
マリナが少年の身体に手をかざし探る。
「道が出来て、この者から精気が吸い取られている。
ああ、心が壊れかけているな、それで用済みか、散々利用しておきながら、慈悲も無し」
横たわる少年を見つめるその顔は、赤とグレーの瞳を持つリリスの顔をしたマリナだ。
グレンを連れ、密かに家を出て悪霊の力の根源を絶ちに来たのだ。
「どうなさるので?」
「良いと言うまで、お前は手を出すな」
「は、承知致しました」
少年は、すでにうつろな目になって死体のように動かない。
マリナは懐から昨夜、散々文句を言うイネスに作らせた泥人形を取り出し、少年の胸に置いた。
そっと両手を合わせ、腕輪のある手を人形にかざす。
「土塊よ、サリヌスの仮の器となって道を閉ざせ」
人形が、ビクンと跳ね上がって宙に浮き、城の方角へとゆらゆら流れて行く。
そして、ビクビク身体を震わせながら苦しそうにもんどり打ち、しばらく痙攣のように身体を震わせる。
やがてガクリと力を失って、ボロボロと元の土へと戻った。
マリナが立ち上がり、その泥を冷たく見下ろす。
悪霊にとって、人はこの、泥のような物に違いない。
慈悲など微塵も残っていない。ただ欲望だけの残渣なのだ。
マリナは怒りに包まれていた。
「卑怯者の悪霊が、待っているがいい。私は力を得て帰ってきた。
お前に受けた仕打ち、何百年たっても忘れてなどいない。
たとえお前の計略で我が身が男たちに何度汚されようと、私の心と身体には一筋も傷を残さなかった。
残るのは、記憶のみだ……
あの地獄のような日々を、忘れる物か」
グッと手を握りしめたとき、サリヌスの口から何か黒いものが飛び出した。
目に留まらぬ早さでそれは、マリナの口を目指して飛ぶ。
口に入ろうとした瞬間、フッとマリナが火を噴いた。
黒いものは床にビチャリと落ちて、ふつふつと青い火に燃やされて消えて行く。
マリナが嫌な顔でそれを見る。
レナントを襲う前、森で顔のない魔導師に、これを飲まされ身体を乗っ取られた。
リリスたちに救われなかったらと思うと寒気が走る。
『お聞きしてもよろしいでしょうか?』
グレンが心にたずねてくる。
それは、地下通路で襲われた時、襲ってきた黒いものによく似ていたからだ。
マリナは、それに応えず答えを言った。
「これは悪霊の澱だ。悪意の澱み、あいつの血と言ってもいい。
これを飲まされると言いなりになる。
そして、厄介なことにこれは、今のようにあいつの手を介さなくても伝播するのだ。
思いがけぬ者が呪いを受けると、この国は終わりだ」
「他の者には伝えなくてもよろしいので?」
「赤が来てから伝えよう。戦えるのはお前達と赤だけだ。
私は払うことは出来るが、戦うことが出来ない。
それに、私は赤より判断力に劣る。
あれは王の器、私がそれに敵うわけもない」
「そのような……」
「この話はあとだ。この者を戻して渡さねば」
心で外にいる青年達を呼んだ。
足音がバタバタと急いで駆け寄り、そして二人が名を呼びながら飛びつく。
「サリヌス!!サリヌス!!しっかりしろ!兄だ、お前の兄が迎えに来たぞ!」
「サリヌス様!」
しかし、少年の肌はすでに瑞々しさを失い、金の髪も白くツヤを失っている。
悪霊が気付かないように泥人形に道を移すには、ギリギリまで弱らせるしかなかった。
「あ、相手の男は?」
「裏から逃げた。近くに小川がある、そこへ連れて行け。身体から邪気を払ってやる」
青年が、仕立ての良いコートを脱ぎ、汚れた少年に迷いも無くかけようとしてギーに止められた。
「それは身体を綺麗になされたあとでお包み下さい。その方が暖かい」
「わかったよ、ギー」
ギーが、上着の中から薄衣を出して広げ、サリヌスの身体を丁寧に包み込み抱き上げた。
抱き上げた瞬間、その軽さに肩をふるわせる。
「おおお……なんと言う。おやつれになって……
城に上がられる時には、あのように張り切っておいででしたのに。
このような事になるとは……」
ギーが、右の目からポロポロと涙をこぼす。
ふと見てグレンが、彼の目に気がついた。
「あなたは片眼が……」
青年が、ギーの背を抱くように、部屋の出口へと背を向ける。
「ギーは、盗賊にさらわれそうになった僕らを助けて片眼を潰したのです。
身を挺して僕らを助けてくれた、命の恩人。
ミスリルだから何だというのだ。
ギーを悪く言う奴を、僕はたとえ貴族でも絶対許さない」
くふふとマリナが笑う。
「気持ちの良い言葉だ。助けた甲斐があるというもの。
家を出て右に行け。しばらく行くと左に小川の匂いがする。
小川につけて、身体を洗ってやるがいい。
それをみそぎという」
「みそぎ?」
「汚れは払える、身体は癒やせる。
だが、心に負った傷は時間が必要だろう。
必要であれば、地の神殿にしばらく療養に行くといい。
きっと力になってくれよう。
さあ、急ぐぞ」
ギーが、サリヌスを大切に抱いて、グレンに抱きかかえられたマリナに頭を下げる。
「どうか、よろしくお願い致しまする、巫子殿」
巫子と聞いて、兄の青年もともに頭を下げる。
マリナは微笑んでうなずくと、彼らの頭に腕輪のある手をかざし、幸あれと祝福を与えた。
マリナは地上に出た時、すでに城から伸びるこの悪霊が作った道を見ていました。
そして、道の先には被害者がいる事も察していたのです。
グレンはまだ、マリナの人となりを知りません。
ですが、彼にとって、マリナ・ルーは青の巫子。
仕えるべき人なのです。




