315、泥の中のエリン
森の木立の中、木々が倒れてポンと空いた道を横目にホムラがリリスを乗せて走る。
ピクンと耳を立てた。
「レナントの者達の声が聞こえます!」
「あれは……やはり泥になっているようですね!声がするという事は、皆様の前で止まってくれたのでしょうか?」
泥山が見え始め、リリスが思わず腰を上げる。
だが、この身体は走るホムラの上で姿勢を保持するほどの筋力が無い。
「きゃっ!」
ビターンと後ろにひっくり返って、ホムラが思わず止まった。
「いったーーー!」
「赤様、大丈夫でございますか?近いようですから、人に戻ります。失礼を」
ホムラが姿を人に変え、身体を起こすとリリスを抱きかかえた。
リリスが頭をさすりながら、何気なく右手をホムラの背に回すとホムラがピクンとかすかに動く。
リリスがアッと声を上げた。
「やけど、やっぱり痛いのですね?ごめんなさい、私だけ治ってしまって」
「なんの、すぐに治りますとも。火の巫子にお仕えしておれば、火傷など日常茶飯事。
気に病むことなどございませぬ。では参る」
「はい」
泥山を目指して、ホムラが走る。
レナントの人々の声がどんどん大きくなり、それは誰かを力づけようとする声のようだった。
大きな泥の山が見えてきた。
なんと言う、骨を捨てたためにタガを無くし、大きく膨れ上がっていったのだろう。
だから、あのような森の惨状を引き起こしたのだと容易に考えられた。
だが、それがあの土塊になった黒い鹿のように、この半身も大きな泥の塊になっていた。
「皆様ご無事で?!」
ホムラに抱きかかえられたマリナの姿のリリスが現れると、騒々しかったレナントの兵達が皆駆け寄ってきた。
「おお!マリナ様!お付きの方が!!」
「我らを救うためにあのような!!」
口々にエリンのことなのだろう、同じ事を叫びながら泥の山を指さす。
リリスはするりとホムラの手から降りて、泥の山ヘと思わず走り出して転びそうになった。
サッとホムラが手で支えると、なりふり構わず走り出そうとする。
「落ち着き成されませ、死んではおりません」
「でも!」
ホムラがまた抱き上げ、泥の前に出る。
そこには、巨大なキラキラと光る薄い布が大きく広がり泥を堰き止め、その布が泥の重さで斜めに覆い被さるようにして、エリンの左足が下の方に見えていた。
だが、その足は膝まで泥に埋まり、ズボンが真っ黒に染まっている。
「助け出すにも、どうしたらよいのかわからないのです。
先ほど小さく逃げろと声がしたのですが、今は声も聞こえぬようになられて」
「布を破っても良いのか……この泥は触れても良いものかわからなくて……」
布に覆われた元は鹿の塊は、あの首のあった方の泥と違って草花が生えていない。
つまり、地の祝福が見えない。
頭の苦悩がない分、ドロドロとした黒い意識が澱となって残っているのかも知れない。
「わかりました、ホムラ様降ります」
「不用意に近づいてはなりません」
「わかっています。この大きな泥を堰き止めている布は何でしょうか?」
「おそらくは精霊の手による物かと、彼はそう言う物を多く持っております」
泥だまりから近づくことが出来ない。
不用意に触れてはならないと、頭ではわかっている。
リリスは、両手を思わずエリンに向けて、その手が震えるのを感じた。
死んでいなくても、その身体は、泥に押しつぶされて、あの腐る泥に汚されて、もう死ぬ寸前なのかもしれない。
「エリン様」
震える声で、リリスが呼んだ。
「エリン!」
返事が無い。
息を呑んで差し出した両手を握り、そしてもう一度大きく広げる。
「私の……
私のオキビよ!!目を覚ませ!!!」
何故か、その名が口から出た。
指輪が輝き、リリスの両目が、髪がボッと赤く燃えると、エリンの周りの泥を千々に吹き飛ばす。
エリンが大きく身体を起こし、そして気を失っているのか前に倒れかかる。
「赤様!!」
リリスは泥も構わずバシャバシャと駆け寄り、彼の身体に抱きついた。
その瞬間、エリンが一歩踏み出し、グッと自分の身体を支える。
泥で汚れた顔は皮膚が黒く変色し、瘴気を吸って声もかすれた。
「リリ……様…………なりませ…………」
「私は!私は!あなたを殺してしまうところでした!!」
汚れたエリンの胸に顔を埋め、ボロボロと涙が流れる。
言葉を探しても浮かばない。
見上げると、エリンの獣の顔は汚れた泥をかぶり、あの美しい毛並みが黒く変色して皮膚が剥げている。
片眼は泥に覆われ、開いてなかった。
「ああ……ああ……なんてこと」
顔の半分を覆う泥を、リリスが袖を破ってそれで拭いた。
ゆっくりと開いた目はしかし、毒気にやられて黒く濁ってしまっていた。
オキビの名を受け入れたエリンですが、何故かその力が発揮しません。
それはリリスも同じで、指輪を手に入れたのに自由に使えません。
リリスは気がついていませんが、マリナは青の巫子の腕輪と共に移動しています。
リリスにとって、自分が本来誰の巫子なのか、苦悩が続きます。




