第三十一章 磁渕、甜憲紅を怒らせる 3
磁渕が再び宿舎を訪れたのは、そろそろ日が沈もうかという頃だった。彼が門番に用件を伝えると、直ぐに晁雲の元へと案内された。
「晁先生、次傅はお戻りになられましたか」
「いいや、まだ戻っていません。今日は少し遅くなるかもしれませんね」
晁雲は部屋の中で書状に目を通していたが、彼にそこにあった椅子に座るよう促した。
「甜さんが随分と怒っていましたが、渕君は何をいったのですか」
別に詰問する風でもなく尋ねると、磁渕は事の顛末をざっと説明した。
「私は別に、次傅に会いたくはないのです。出来れば、次傅が私に会わないと言ってくれるなら、父上に言い訳が立つんですが」
「なるほど、では渕君は次傅の評判から判断して、会いたくないと考えているのですね」
晁雲も磁渕の性格はよく知っている。そして、この辺りで広まっている彼女の評判が、磁渕の好みとは異なる事も察していた。
「先生は次傅と実際に会われて、どのように思われたのですか」
磁渕は晁雲の言い方に含みがあるように感じ、逆に質問を返した。
「確かに、渕君の言葉にも一理はあるかもしれません。あの方は多少、思慮の欠けたところがあります」
あっさりと自分の意見が認められたため、磁渕はかえって拍子抜けした。
「それでは、やはり大した人物ではないのですね」
「誰もそうは言っていません。ただ誰でも思慮分別を欠くところがあるように、次傅にもそうしたところはある、という事です」
晁雲の逸らかすような返事に、磁渕は不満を訴えた。
「それでは答えになっていません。もっと具体的な評価を教えてください」
「説明するのは難しいですね。簡単に言うと、次傅は自身を過小評価しすぎる、ということでしょうか」
「過小評価」
それは磁渕にとっても意外な評価だった。
「そう。誰でも自分を客観的に評価する事は難しい。ある者は過大に評価して失敗し、別の者は過小に評価して失敗する。次傅は後者の例という事です。ただ、次傅の場合は、自分の能力に自信がないという訳ではないようですがね。ここが難しいところです。あるいは、彼女は自分を過小評価するというよりも、他人を過大評価する、と言った方がよいかもしれません」
磁渕には、晁雲の説明する白貂娘という人物像が理解しかねた。
その頃にはすっかり日も沈んでいたが、まだ白貂娘が帰ってくる気配はなかった。
「どうやら次傅の帰りは遅くなりそうですね。私がそう言っていたと言えば、御父上に対しても言い訳が立つでしょう。その薬は私が預かりますよ」
晁雲はそう勧めた。少なくとも、自分は次傅に会うための努力は払った訳であり、父も文句を言わないだろう。
磁渕はそう考えると、晁雲の勧めを受け入れる事にした。
彼は晁雲に薬を渡すと、一礼して直ぐに宿舎から立ち去った。
「では先生、失礼します」
「私は君の才能を高く買っています。出来れば、様々な人と会って、君が自分の目で見て、自分で判断して欲しいと思います」
磁渕はその言葉が、自分に白貂娘と会うよう勧めているのだと判った。そして同時に、晁雲が白貂娘についてあまり細かく説明しなかった理由も悟った。
「ありがとうございました」
もう一度礼をすると、彼は闇の中へと駆けていった。




