第三章 白貂娘、丁義堅に仕事を求める 2
序章で、
「第十二代国主であった平蘭史は」とあった部分を
「第六代国主であった平蘭史は」へ修正しました。
丁義堅は今年四十一歳になったが、前述したとおり未だに独身であった。もちろん今をときめく瑛の大将軍に結婚の話がなかった訳ではない。しかし彼はこれまで何かと理由をつけてはそうした話を断っていた。
白貂娘が丁義堅の元に引き取られた時、多くの者はいよいよ大将軍も結婚か、と噂した。
この時代、女性は十四歳から十八歳くらいで結婚していた。白貂娘は丁度その年齢であり、夫婦の年齢が離れている事もさほど珍しい事ではない。
しかし実のところ丁義堅は白貂娘との結婚は全く考えていなかった。
彼の白貂娘に対する好意は、彼女の容姿や才能よりもその経歴が関係していたのである。彼女はごく低い身分から取りたてられていた。そして丁義堅も同じような経歴を持っていたのである。
元々、丁義堅は先代皇帝の法関兼に仕える下僕だった。といっても法関兼が皇帝の座に就く前の話である。
丁義堅はある時、法家の屋敷に押し入った盗賊を一人で退治するという手柄を立てた。
法関兼はその時の丁義堅の手腕に感心し、彼をただの下僕の身分から引き上げ、私兵の一部隊長に抜擢したのである。
彼は法関兼の期待によく応え、法家による賢王朝簒奪の際には、兵を率いて抵抗する敵を瞬く間に平らげてしまった。
それ以来、彼は一度しか負けておらず、その唯一負けた戦が白貂娘の初陣のそれだったのである。
丁義堅が結婚しなかったのには、誰にも言えない理由があった。
彼には想う人がいたのである。主筋に当たる人物で、聡明な美しい女性であった。皇帝の姉に当たり、名を法安里という。奉の平子漢と結婚した事は前述した。
もちろん丁義堅が彼女を初めて見た時、彼はまだ下僕にすぎず、そのような思いを抱くこと自体が不遜な事だった。それでも彼は法安里の事が忘れる事ができず、いまだに結婚をしなかったのである。
その一方で彼も自分の跡継ぎは必要としていた。
そんな時、彼は戦場で白貂娘とまみえたのである。それは奉の平蘭史の孫娘である平碧を捕らえるために行った作戦の時であった。
平碧は平蘭史のたった一人の孫だったため、彼は平碧を宝のように大事にした。彼女を危険な場所へ行かせることはまずなかった。
しかし平碧が十二歳の時、平蘭史は密かに彼女を瑛との国境にある、穂城という小さな町へ旅行させたのである。
その年平碧は病気がちであった。奉の宮廷卜士だった壁可全夏という人物がこれを凶とし、穂城にある白虎廟に参詣するように勧めた。平蘭史はこれを聞き入れ、極秘で碧を穂城へ向かわせることとした。
しかしこれは瑛の謀略だった。壁可全夏は瑛から賄賂を受け取りそう進言したのである。
瑛は平碧を捕らえる為にこの作戦をたてた。正確に言えば、取り返す為である。なぜなら、平碧の父は、元は人質として瑛の前身である賢の国にいたのであり、さらにその母は、今の皇帝の姉だったからである。
とにかく平碧が穂城へ入るとすぐ、瑛の軍勢二千が穂城を取り囲んだ。瑛軍の指揮官はもちろん丁義堅である。
本当なら穂城に入る前に捕らえたかったが、平碧の一行が予想より早く来たため間に合わなかった。
国境の町とはいえ敵地に侵入している。奉軍一万が、穂城から一日ほどの所で瑛に攻め込む気配を見せていた。この軍が実際には瑛の目を平碧からそらすためのものであり、本当に瑛に攻め込む事はない、ということを既に瑛では知っていた。
しかし穂城が囲まれていることを知ったなら、その軍が直ぐにこちらに来るだろう。それでも彼は一日あれば平碧を捕らえることが出来ると判断したのである。
彼は城を三方から囲み、一方だけ空けておいた。これは城攻めの常道である。さらに空けてある先に伏兵を配備し、そこで逃げてきた平碧を捕らえようとした。
穂城は城と言っても小さく、城内には二百程の兵しかいない。これではそう持ちこたえられるものではない。城側は平碧だけでも逃がそうと、直ぐに城から脱出させるだろう。
そのように丁義堅は考えていた。
ところが平碧はいつまで経っても逃げようとはしなかった。
彼は城側が伏兵策を見破ったのかと訝しんだ。穂城の県令や役人の中にそれほど有能な人物がいるとは聞こえてこなかったし、平碧の一行自体も目立つことを防ぐために、護衛や身の回りの世話をする女官など数名しかいなかったはずだからである。
それでも時間をあまり無駄にするわけにもいかないため丁義堅は力攻めに変えようと軍を動かした。
するとそれを待っていたかのように突然門の一つが開き、百人ばかりの兵が飛び出してきた。しかも兵の中央には馬車があり、そこには御者と女の子が乗っている。
彼はそれを平碧と思い、慌てて追い掛けるよう軍令を出した。
瑛軍二千はたび重なる軍令に一時的に混乱状態になりながらも、城を飛び出した兵士達に引きずられるように追い掛け始めた。
すると突然、逃げるはずの敵兵が突然向きを変えときの声を上げながら反撃してきたのである。しかも挟み込むように城からも残りの兵が討って出てきたため、瑛軍は恐慌状態に陥ってしまった。
丁義堅はしてやられたと感じながら、必死になって軍をまとめようとした。そのとき彼は城に戻ってゆく奉軍の兵士に守られるようにして馬車に乗っている女の子が、この作戦を指揮したことを直感したのである。
こうして彼は初めての敗戦を小さな女の子に喫することになった。
ようやく部隊をまとめた時には再び城の門は固く閉ざされており、味方の士気はすっかり落ちてしまい、その日のうちにもう一度城を攻めるのは難しいと判断した。
彼は作戦を諦め直ぐに兵を引いた。
そしてその戦さで指揮をした女の子の正体を調べた。
最初は平碧が自ら指揮を取ったのだろうと考えていた。しかし意外なことに平碧が自分の侍女に指揮を取らせたことがわかった。
平碧は、自分と同じ年齢のその侍女に二度にわたって狼藉者から命を救われたことがあったため、彼女なら何でもできると信じていた。このためこの時にも彼女に無理矢理、軍を指揮する様に命令したという。
最初はたかが十二歳足らずの侍女に何ができる、と考えていた城の県令や兵士たちも、彼女の作戦を聞き、さらに自ら囮になると宣言するに及んで彼女に協力するようになった。
この侍女こそ白貂娘の王礼里である。
丁義堅はこの自分を破った少女が降伏した際には是非、自分の養子にしたいと考えた。
実は彼のこの考えが、白廊関の戦いが一年にも及んだ一因になったのである。
彼は皇帝より、戦の際にできるだけ民に被害が出ることがないよう、命じられていた。
なぜなら今は敵国の民であっても統一後は自国の民となるからである。天下統一を目指す軍として、後にしこりを残すような勝ち方は相応しくない。
そして丁義堅はこの皇帝の命を盾に取り、白廊関では絶対に無理な力攻めをしなかった。
白貂娘が立て篭もり、簡単な計略では落ちないことを見ると、彼はすぐに白約楽に相談した。
白約楽はまず、丁義堅に白廊関に留まり続けるように言った。次に彼は慶を通して奉の朝廷に、白貂娘が瑛と内通している、という噂を流した。
白廊関に丁義堅がいる限り、王礼里は奉の都に戻って自分を弁明することは難しい。
さらに白約楽は丁義堅に、白貂娘に対して頻繁に軍使を送るように言った。降伏を勧める使者もいればただの軍中見舞いの場合もあったが、丁義堅はとにかく理由を付けては白廊関に篭もる白貂娘に軍使を送りつづけたのである。
これが一年近く続き、最終的に白約楽や丁義堅が考えていた以上の効果を産んだことは周知の通りである。
実を言えば丁義堅は白廊関を抜いた後、直ぐに王礼里を見付けていた。彼女は鄭安へ護送されるはずだったが、彼女を慕う兵士達が彼女を監車ごと奪い取り、近くに隠れていたのである。
丁義堅は近習に固く口封じをして見舞いに行った。そこには見るも無残な状態の彼女が、生死の境をさ迷っていた。
このとき彼は、もしも彼女が意識を取り戻しても、少なくとも当面は人目に触れるのを嫌がるに違いないと考え、彼女は行方不明ということにしたのである。事実王礼里は意識が戻ると暫く一人になりたいと言った。
しかし瑛では降伏しない敵国の主要人物は指名手配にすることになっている。もちろん白貂娘も例外ではない。このため丁義堅は北の段珪の地で暮らすように勧めたのである。
段珪の地の偵察云々という話は、本当はそちらがおまけであり、文字通り怪我の功名というわけであった。
そして三年が過ぎ、丁義堅の思惑通り段珪への使者が王礼里を見つけ、彼が彼女を預かることになったとき、直ぐに彼女に自分の養子にならないかと申し出た。
しかし彼は王礼里を自分の養子とする事が出来なかった。彼女が丁義堅の申し出を丁寧に断ったからである。