第三十章 晁雲、白貂娘に昔語りをする 1
その日は取りたてておおきな出来事もなく過ぎていった。太子は予定を大過なくこなしてゆき、巡幸の目的はよく果たされていた。
白貂娘も太子の側近としての仕事に追われ、太子の手紙を陰麗華という娘に渡す方法を考える暇もなかった。
但し、そのために陽長公主とも会わなかったため、太子の相手について聞かれずに済んだことには胸をなで下ろした。
夕刻に彼女が宿舎に戻ってくると、晁雲が役人達にしきりと指示を出していた。彼女は晁雲に近づいて、何か起きたのかを尋ねた。
「いえ、特に異常があったわけではありません。太守からの指示で、警備を厳しくするように命じておりました」
晁雲は丁寧にそう答えた。その時にはすでに役人達への伝達も一段落していたため、晁雲は改めて白貂娘に話しかけた。
「お疲れ様でした。この街の人を相手にするのは骨が折れたでしょう」
そう言われても、簡単にはいそうですね、と答えられるはずもない。彼女は曖昧な返事をしたが、晁雲は気にせず、さらに話を続けた。
「ところで、王次傅はこの街にどんな印象を持たれましたか」
「印象ですか……。よい街ですが、なかなか複雑なようですね」
白貂娘が正直に感想を述べると、晁雲は頷いた。
「南華の街はどこも同じです。土着の豪族、北から来た貴族、少数民族……。彼等がそれぞれ反目しつつ手を取り合っている、そういう不安定な土地です。ですから呂厳のような男もいますし、磁計侃のような男も出てくるのです」
彼の客観的な口振りから、白貂娘はふと疑問を口にした。
「主簿はこの土地の出身ではないようですね」
「ええ。実はこの国の人間でもないのです」
晁雲の言葉に彼女は驚いた。彼は、瑛の東の海に浮ぶ、那途という島国からの留学生だったというのである。
「今から三十年も前の話ですがね」
彼の話では、その頃、那途は渠や程にしきりに親善使節を送っていたそうである。しかし、那途国内の政変により方針が変わり、結果として多くの留学生がこの国に残されたのだという。
「この辺りで”晁”という名字の人は、大抵私と同じ那途の出身か、その子孫ですよ。まあ、多くは私より年上で、既に亡くなったり自力で帰ろうとしてそのまま行方不明になった人も少なくないですが」
「主簿は帰ろうと思われなかったのですか」
白貂娘の質問に、晁雲は笑って答えた。
「荒海をもう一度渡る勇気がなかったのです。もし本国からの正式な外交使節が来たなら、一緒に帰ったかも知れませんがね」
彼の言葉に白貂娘は心から同意した。




