第三章 白貂娘、丁義堅に仕事を求める 1
「義堅様」
それまで丁義堅の質問に答えていた王礼里は、突然そう呼びかけた。
当初、彼女は丁義堅のことを「丁将軍」と呼んでいたが、彼自身が私的な場でそうした堅苦しい呼び方をされるのは慣れていないと言ったため、そう呼ぶようになった。
「義堅様は酷い方ですね」
卓の反対側で椅子に座り、お茶を飲みながら彼女の話を聞いていた丁義堅は、白貂娘にいきなりそう責められても別に気にする様子はなかった。彼女の口調も強く非難するのではなく冗談めかしたものがあった。
すでに、丁義堅が王礼里を預かってから数日が経過している。
彼自身はまだ独身だったので、自分の家の離れを彼女にあてがい、甜憲紅という名のまだ幼さの残る下女を雇って彼女の身の回りの世話をさせていた。
そしてこの日、彼は王礼里の住んでいる離れを訪ねた。
彼は日常的な会話から始めて、彼女の北での生活、そして段珪の風俗や考え方などを聞きはじめた。王礼里は丁義堅の質問に素直に答えていたが、ふと口をつぐみ、先の発言をしたのである。
王礼里は丁義堅がどのような反応をするのか見るようにしばらく彼を見ていた。
丁義堅は庭の方を見ながらお茶を一口のみ、それから彼女に聞き返した。
「なぜ、私が酷いかな」
「あの時、義堅様が私を逃がしてくれたのは、私が落ち着きを取り戻す事ができるように配慮してくれたのだと本気で信じていました」
「そのとおりだよ」
「ですが将軍は同時に段珪討伐に先駆けての、偵察の役目も私に期待していたのでしょう」
少し非難めいた彼女の言葉に、丁義堅は苦笑と共に答えた
「確かにそれも事実だ。ただ、それは言わばおまけだよ。それでも白貂娘、君はそれを知らなかったのに十分過ぎるほどその役目を果たしてくれたようだね。まさか夏臥単于が君を閼氏に迎えようとするとは思わなかったよ」
そう言うと丁義堅は王礼里の方を見て微笑んだ。しかし王礼里は小さくため息を吐いた。
「あの方もただ中原に関する知識を少しでも多く欲しかっただけでしょう。私を愛していた訳ではないと思います。結局、私は利用されるために生きているんですね」
「誰からも利用価値がないと、無視されるよりはいいと思うがね」
「確かにその通りです。ただ何と言えばいいのかわからないのですが、すこし残念に思ってしまったのです」
王礼里は再びため息をついた。丁義堅はその様子を横目で観察していた。
その沈黙を破ったのは下女の甜憲紅であった。
まだ十歳の彼女は、両親を戦乱のうちに亡くしていた。都の親戚の家に引き取られていたが、その家も貧しかったため彼女の働き口を探していたのである。
甜憲紅は部屋の扉を叩き、王礼里の返事がするとすぐに中に入ってきた。お茶を入れるためのお湯の代わりを持ってきたのである。
彼女も白貂娘についての話は親戚の家でもよく聞いており、白貂娘に心酔していた。
「白貂娘様、お湯のお代わりをお持ちしました」
「あら、ありがとう」
「もしなにか用事がありましたら、遠慮せずに何でも申し付けてください」
彼女にとって自分が白貂娘のお手伝いをしているという事が誇りであった。
ただ不満もあった。それは白貂娘が自分の身の回りの事をほとんど自分でやってしまい、彼女のやる仕事が少ないという事である。
そのため彼女は王礼里の顔を見るたびに、同じ事を言うのであった。
王礼里にとっては、甜憲紅のそうした心遣いはありがたかった。ただ丁義堅の屋敷にいる限り、彼女は他にやる事がない。
これまでは自分の事は自分でしてきたため、本来は甜憲紅が行うべきことまで行ってしまうのである。
王礼里はふと、丁義堅に尋ねた。
「私は今、義堅様の元でお世話になっておりますが、今後はどうなるのでしょう」
「今後とは」
「いつまでも義堅様に迷惑を掛ける訳にはまいりません。といって義堅様が私を預かっているのは、陛下直々に決めた事とか。勝手にこの屋敷を出る訳にもいきません」
「この屋敷になにか不満があるのかね」
丁義堅は別に他意があってそう尋ねた訳ではないが、まだその場にいた甜憲紅は目にみえて青ざめた。彼女は自分に不手際があって白貂娘が屋敷から出て行こうとしていると思ったのである。
丁義堅の位置からは、そうした甜憲紅の様子が良く分かったが、王礼里の座っている場所からは丁度死角になっており気付かなかった。
「別に屋敷に不満があるわけではありませんが」
王礼里がさらに言葉を続ける前に、甜憲紅が叫んだ。
「白貂娘様、どうかこの屋敷から出て行かないでください。私を辞めさせないでください」
突然の事で王礼里も丁義堅も一瞬唖然としたが、すぐに二人とも笑い出した。
「大丈夫よ、憲紅。私は別に、この屋敷を出る訳でも、あなたを辞めさせる訳でもないから」
丁義堅は、王礼里がそう言って甜憲紅を宥めるのを待って、話を続けた。
「不満がないのであれば良いではないか。もう君が戦場を駆け回ったり、剣を振るったりする必要はないし、いまさら一人で暮らすこともないだろう。暫くはここでゆっくりすることだ」
王礼里は泣きじゃくっている甜憲紅の頭を撫でながら丁義堅の言葉を聞いていた。
「判りました。ただ私は今まで生きるために何かしら仕事をしてきました。いまこの屋敷で何もせずに暮らすのは、どうも落ち着かないのです。なにか私にできる仕事を頂けないでしょうか」
「なるほど、そういう事か」
丁義堅にも白貂娘の気持ちは分かった。ただ彼としては、彼女を再び戦場に出す気はなかった。
「何か君にできる仕事を探しておこう。他に何か希望はないか」
その問いに対して、王礼里は暫く沈黙した。丁義堅は、できるかどうかはともかく、話してみるよう促した。
「実は、河園侯と栄甘公主に一度お目にかかりたいのです」
白貂娘の申し出に、丁義堅は軽く驚いた。言い出しにくいはずである。
「基本的には河園侯には誰も会えない事になっている。栄甘公主は大夫の景達殿の元に降嫁しているので、大夫に頼めば会えるかもしれんが、どうも私は景達殿が苦手でな。口添えはしてみるが期待はしないでくれ」
「無理を言って、申し訳ありません」
王礼里は頭を下げた。
その時再び彼女の部屋の扉を叩く音がした。
今度は家宰の劉沢であった。部屋に入ると王礼里に一礼してから、丁義堅の方を向いた。
「ご主人様、お客様がおみえです」
「わかった。直ぐに行く」
そう言うと丁義堅は席を立った。
「さて時間を取らせて申し訳なかった。私はこれから少し用事がある。また次の時に改めて話を聞こう。君の願いもその時に返事ができるだろう」
彼は部屋を出ようとしたが、その前にもう一度王礼里の方を向いた。
「最後にもう一つだけ聞きたい事がある。君は夏臥単于がいつ攻め寄せると思う」
「さあ私はそこまで知りませんが、私があの方なら秋頃に攻め寄せるでしょう」
「ほう、どうしてだ」
「秋はこちらは収穫期に当たるので大軍を動員できません。常備軍だけを相手にすればよろしいですし、それに長期化するなら冬が参りますから、向こうはさらに有利になります。こちらは寒さと雪の中での行軍は、ほとんど経験がありません」
「しかし、冬が来るなら向こうも戦はできんだろう」
「彼らは南下する事で雪の降らないところで暮らせる、という期待があります。一方こちらは北上してもさほど益はありません。この違いは兵の士気に如実に表れるでしょう。ですから、こちらは冬が来る前に必ず勝たねばなりません。段珪の民は、一度負けると一気に士気が落ちます。夏臥単于も無理して南下策を続ける事はしないでしょう」
丁義堅は、白貂娘のその答えに満足して、部屋を後にした。