第二章 白貂娘、皇帝に拝謁する 3
王礼里は翌日の朝の議事の後、皇帝に拝謁する事が決まり、それまでに身だしなみを整える事となった。後宮で仕事をする数人の女官と宦官がそのために彼女の元へと入ってきた。
さらに沐浴に使う浴槽が運び込まれそこに湯が満たされる。
「沐浴なんて、何年ぶりかしら」
その王礼里の言葉を無視して、女官の一人が彼女に服を全部脱ぐよう促した。
「顔はあとで一人で洗いたいわ。覆面をつけたままでもよろしいかしら」
「いいえいけません。ここで覆面も外してください」
白貂娘が隠し武器を持っていないかどうか、調べるように仰せつかっていた女官の長は、王礼里の申し出を素気無く断った。王礼里は小さなため息を吐いた。
「そうですか。では外しますが、私の顔はあまり人に見せられるものではなくなっています。ですから、気を落ち着けて、驚かずに見てください」
そういって王礼里はゆっくりと覆面をはずした。
拝謁の場には昨日とほぼ同じ顔触れがそろった。ただし劉監だけは体調が優れないといって席を外している。
王礼里は昨日高寿蘭がいた場所に、兵士に挟まれる形で跪いていた。
「苦しゅうない。面を上げよ」
皇帝がそう声を掛けると、王礼里は躊躇わずに顔を上げた。彼女は今日も覆面をしたままだった。覆面の隙間から覗く彼女の右目が皇帝を見つめた。
皇帝はそのまま暫く白貂娘を観察した。瑛随一の名将である丁義堅を破った娘。唯一丁義堅が勝てなかった相手でもある。
しかし、皇帝はその風貌を見て多少の失望を覚えた。当然といえば当然であるが、見た目にはただの若い娘にすぎない。しかも顔は覆面をしており、右目しか見えないのである。
ただ皇帝は、彼女のその唯一見える右の瞳を見た時、不思議な感覚があった。以前にその同じ瞳を見たことがある、そんな気分であった。
それが気のせいかどうかは判らなかったが、その瞳を皇帝は気に入った。少なくとも復讐者のそれではない。丁義堅が彼女に惚れたという噂もあながち嘘ではないだろう、そう思わせるような瞳であった。
「そちの顔を見て、女官の一人が気絶したそうだな」
「はい。私の顔はすでに人目を避けるべきものとなっております。失礼とは承知しておりますが、顔を覆ったままでの拝謁をお許しください」
「そうか。しかしそちの顔を一度は見ねば、そちが本物であるかどうかの判断はできぬ。一度だけここでその覆面をとり、ここにいるものに顔を見せるように」
皇帝にそう言われると、王礼里は覚悟をしていたのだろう。うなずいてゆっくり覆面を外しはじめた。
その様子を凝視していた皇帝と重臣たちは、布の下から出てきたその素顔を見て息を呑んだ。
彼女が刑を受け、右耳を削がれ、顔に焼き鏝を付けられたという話は彼らも知っていた。しかしその想像を遥かに上回る悲惨な傷痕が、彼女の顔には残っていたのである。
その顔には簾のように多くの細い傷が赤々と残っていた。しかもその傷の一つが左目にかかり、そのために左目が潰れてしまっている。そのうえ数箇所に焼き鏝による火傷の跡が残っており、すでに彼女の元の顔を想像する事すらできなくなっていた。
彼女の顔を見た瞬間、皇帝と丁義堅以外のものは皆、顔を背けてしまった。女官が気絶した、というのもうなずける、と感じながら。
「もうよい。覆面を付けるように」
皇帝はそう白貂娘に命令した。
確かにこの顔では人目を避けたく思うであろう。王礼里が顔を再び覆うのを待ってから、皇帝は再び質問した。
「なぜ、そちの顔はそこまで酷くなったのか」
「広将軍により刑を受けた時、将軍は私の全身を身が裂けるまで打ち叩きました。その時、顔にも幾度か鞭を受けたのです。またその後の事は私も気を失っていたので詳しくは判りませんが、受けた傷の手当てを受ける事もなく、一日近く放置されていたため、傷痕がこのように残ったそうです。私を診察した医者は死ななかった事が奇跡だ、とそう申しておりました。私も傷痕が残る程度ですんだ、と今は考えるようにしています」
「では、もう気にしておらぬというのか」
「最初は余りの事に取り乱しました。冷静になるまで一年、諦めが付くのに一年かかりました」
「どう取り乱したのだ」
「一日中、呆然としたり、泣き続けたり、剣を振り続けた事もあります。怒りで復讐を考えた事もありました」
王礼里の口から『復讐』という言葉が出た時、そこにいる皆の顔に緊張が走った。丁義堅だけが一人、顔色を変えずにいる。
「復讐、とは誰に対してかね」
皇帝は、少し上体を反らして聞いた。
「誰に、と申しましても今の私には判りません。ただ何かに復讐をしようと考えた事もある、ということです。どうも私は特定の相手を憎み続ける事ができないようです。冷静になると、私事で人を傷付けてはいけない、という父の言葉も思い起こされましたし、私自身が復讐によって自分の一生を無駄にした人を知っていました。つまり復讐という考えはあくまでも、一時の気の迷いに過ぎません」
本人の口から復讐する気はない、と言われても、はいそうですかと簡単に信じる事はできない。
「ではなぜ今まで隠れており、今になって出てくる気になったのだ」
「今も申しましたように、私は命を取り留めて意識が戻った時、かなり取り乱しておりました。私を助けた方はその私の様子を見て、暫く一人で暮らすように勧めてくださいました。そこで私は身を隠し、北の段珪の地で住む事にしたのです。あれから三年が経ち、私もようやく落ち着きを取り戻して人が恋しくなりました。中原に戻りたく思いましたが、迂闊に瑛に入るなら、私はお尋ね者であり、たとえ顔が変わっているといっても賞金稼ぎに命を狙われる可能性もありました。そんな折りに陛下の使節団が私の住む場所の近くを通ったのです」
「命が惜しいか」
「無駄に死にたくはありません。私は生きるのが好きですから」
「しかし、そちは我が国から犯罪者として扱われておる。命が惜しいのになぜ逃げなかった」
その問いに、王礼里は一瞬、考え込んだ。
「確かにその通りです。そうですが、私はもう一度この地を踏みたかったのです。そしてこの地に戻る以上、同じ命の危険に晒されるなら、私の命を陛下に委ねようと思ったのです」
「朕に委ねると」
「はい。私がお尋ね者となったのは、陛下に降らなかった事によります。実際、私は逃げた訳ですが、それは陛下に対し叛意を抱いたからではなく、先ほども申しましたように取り乱した気持ちを落ち着けたいと思ったからです。すでに私も心の準備ができました。私の処分は陛下にお任せいたします」
そこで皇帝は白貂娘に最後の質問をした。
「そちを助けたのは誰かね」
「その方はいわば犯罪者を匿ったのです。その名前を言うならその方にご迷惑がかかります。どうかそれはご容赦ください」
王礼里の拝謁はそこで終わった。
彼女が兵士とともに別室へ下がると、皇帝は重臣たちに再び白貂娘に対する処遇について諮問した。
彼らは意見をまとめる時間を皇帝に求めその場で話し合いを始めた。
「あの娘は今、何歳だ」
「白廊関の戦いの時、十四歳だったと聞いております。あれからおよそ三年が経過していますから、十七歳くらいでしょう」
「その若さで。ずいぶんと苦労したのだな」
「しかし、本当に誰にも怨みを持っておらぬのかな」
「あれでは嫁の貰い手もなかろう」
「死にたくない、と申しておったが、あれでよく兵を率いて戦う事ができたものだ」
「あの口振りでは、助かるために使節団についてきたようだな」
「無駄に死なぬ、ということは、その必要があれば死をも厭わぬ、とも取れるぞ」
「それは考えすぎだろう。そんな気丈には見えなかった」
「どちらにしろ、白廊関で一年も我が軍を足止めしたとは思えませんな」
「白貂娘か。白貂は国を滅ぼすというが、あの娘も奉を滅ぼしたな」
「それは少し違いましょう。奉は彼女を失ったので滅んだのです」
様々な意見が交わされた後、丞相の白約楽の語った次の言葉が皆の考えをまとめた。
「降伏したものは許すのが我が国の作法です。白貂娘は先の戦乱の際に瑛に敵したとはいえ、それはその主君に忠義を尽くしたまでで、忠義の者を罰する法はありません。またあの顔では確かに人目を避けたく思うのは人情でありましょう。さらに言えば、我が国の使節団を段珪より救った功も無視はできません。ここは逃亡した罪を不問とし、しかるべき者に身柄を預けるのが適当でしょう」
この瑛の丞相という、位人身を極めた白約楽という人物はまだ三十三歳という若さであった。
彼は皇帝法安才がまだ賢の重臣の息子に過ぎない頃から彼に仕えていた。皇帝より一歳年下であったが、その若い頃より政治的な才能を発揮し、法家による離氏賢王朝簒奪の際には法貴円とともにその筋書きを作ったといわれている。
時として陰険な計略も駆使して瑛の建国に尽力したが、さっぱりとした性格と丁寧な物腰のため意外と人望はあった。
彼の意見に他の者も異存はなかった。皇帝もこの処置を是とした。
「では丁大将軍。そちのところで白貂娘は預かるように。丞相と大将軍だけ残り、他の者は下がるように」
皇帝と白約楽、丁義堅だけを残し、他の者は自分の部屋へと下がった。丁義堅は、その時までほとんど口を開いていなかった。
周りに人がいなくなった事を確認してから、皇帝は丁義堅に話し掛けた。
「義堅。白貂娘を助けたのはおぬしであろう。約楽もそれを知っておったな」
「「申し訳ありません」」
二人は声をそろえ、頭を下げた。
「まあ良い。しかし義堅、おぬし昨日は白貂娘に会わぬよう言ったが、あれはなぜだ」
「陛下が白貂娘を一度見てみたい、と考えている事は知っておりました。昨日私が止めなければ直ぐにあの場に通したことでしょう。昨日は御史大夫がおりました。御史大夫は白貂娘を嫌っております。もし御史大夫を含めて彼女の処遇を決めるなら、彼は白貂娘の処刑に執着した事でしょう。今日にするなら、彼は理由を付けて出仕しないと考えたのです」
「ほうなるほど。しかし、おぬしがよくそこまで考えたな。戦だけの男と思っていたが」
皇帝はそう感心したが、丁義堅は頭を振った。
「丞相に相談しました」
「やはりそうか。それで約楽も知っておったのだな」
そう言いながら皇帝は白約楽の方を向いた。
「恐れ入ります」
白約楽がそう答えると、皇帝は再び丁義堅の方を向いた。
「しかし義堅、なぜ白貂娘の隠れ場所に段珪の地を選んだのだ」
「白貂娘は観察力の優れた娘です。彼女は段珪の地に三年住む事で、彼らの事を良く知っている事でしょう。陛下の段珪討伐にも、彼女の知識は十分役立つはずです」
「ははは、やはりそうか。では義堅、白貂娘からよく段珪の事を聞いておくのだぞ」
皇帝は笑いながらそう言うと、二人を下がらせた。