第二十章 喜香太子、南華巡幸のための旅路につく 3
狭い船室の中にある寝床に、白貂娘が寝ているのがすぐに判った。法詠華はつかつかと近づき、彼女を見下ろしながら大声で話し掛けた。
「なに昼間から寝ているのよ。具合が悪いなら、医者を呼べばいいじゃない」
白貂娘はその声に体を少し動かして反応した。時間をかけて法詠華の方を向き、ぼそぼそと何かを言ったが、法詠華には聞こえなかった。
「聞こえないわ。なんて言ったの」
法詠華が文句を言うと、後ろから恐る恐る近づいてきた甜憲紅が、白貂娘に変わって答えた。
「主人は船に酔ったと言っています。私も医者を呼ぼうと思ったのですが、それには及ばないといって、そのまま寝床に就いたままなのです」
それを聞いて法詠華は怒り出した。
「船酔いって、船なんかぜんぜん揺れていないじゃない。初めて船に乗る私ですら何でもないのに、何であなたが船酔いになるのよ」
そう言われても、酔っているものは仕方がない。甜憲紅は陽長公主が怒り出したことですっかりうろたえてしまった。
「あの、船酔いは体質も関係するので、個人差があるとか。主人は昔から船が苦手だそうです」
うろたえながらも、甜憲紅がそう説明した。法詠華は呆れてため息を吐いたが、白貂娘は見舞いに来た陽長公主の前で寝たままでいる訳にもいかないと思い、無理をして寝床の上で上半身を起こした。
「あら、起きられるならたいした事ないのね」
そう言うと、法詠華は改めて白貂娘を見た。丁度、彼女の方を向いた白貂娘と目が合ったが、その目を見た時、法詠華はそれ以上、嫌みを言うことができなかった。
法詠華は、父親である皇帝法安才にも似た、白貂娘の瞳が好きであった。しかし、いつもは力強いその瞳も、今日は明らかに空ろであった。覆面で判らないが、顔色も悪いであろうことは一目で分かる。
法詠華はもう一度、ため息を吐いた。今度は諦めのそれである。
「あなた、陸の上では無敵なのに、水の上では全然駄目なのね」
「……申し訳ありません」
辛うじて白貂娘がそう言うのが、法詠華の耳に入った。
「謝らなくてもいいわよ。仕方がないから、浪夏に着くまでは邪魔しないわ。そこで寝ていなさい」
そう言い残して、法詠華は二人を残して部屋を出ていった。
「行ってしまいました」
甜憲紅は嵐のように現れてまた去っていった法詠華の後ろ姿を、呆然として見送った。
白貂娘も、彼女が部屋を出るのを見届けると、気が抜けたように再び寝床に横になった。
「大丈夫ですか」
「大丈夫ではないけど、大丈夫よ」
甜憲紅がかけた気遣いの言葉に、白貂娘は答えになっていない返事をした。
甲板に戻った法詠華は、再び喜香太子に近づいた。太子は、姉の顔を見ると、直ぐに白貂娘の様子を聞いた。
「ただの船酔いだそうよ」
ぶっきらぼうに法詠華がそう答えると、喜香太子も不思議そうな顔をした。
「だって、船は全然揺れていないよ」
「本人がそう言っているのだから、仕方がないでしょ。船が苦手なんだって。全く、あれでよく馬にのって走れるわね。馬の方がよっぽど揺れると思うけど」
法詠華がそう言うのを聞いて、喜香太子はふと思い出したように頷いた。
「そうか。前に礼里は苦手なものがあると言っていたけど、船のことだったんだ」
納得したという太子の言葉に、たまたま近くにいて彼らのやり取りを聞いていた白約楽は、白貂娘の意外な弱点を知って笑いをこらえつつ、同時に不安な気持ちを抱いていた。
彼は今回の巡幸において、太子の護衛の中心的な役割を白貂娘に委ねるつもりであった。もちろん、太子専属の護衛隊は存在するが、いざという時に百戦錬磨ともいえる彼女の存在は大きいと考えていたのである。
しかし、彼女に船酔いという弱点がある以上、船旅が中心となる南華地方での彼女の働きは微妙なところとなる。今日の天候で船酔いするようでは、下手をすると最後まで同行できるかも怪しい。
それでも、彼は別に深刻には考えなかった。物事が全て順調に進むとは限らないことを、彼もよく知っている。予定外のこととはいえ、早くに判ったのは幸いであった。自分の計画に多少の修正が必要になったとはいえ、その修正にかける時間はまだ十分にあるのである。
白約楽は素早く、頭の中でその修正を始めたのであった。




