第二章 白貂娘、皇帝に拝謁する 2
高寿蘭は陽安に着くと直ぐに王礼里を連れて参内した。
最初、彼は王礼里に対し、自分の家で衣服を整えて待つように言ったが、王礼里は自身の立場が微妙であるため、そうするならあなたに迷惑がかかるといい、結局そのまま一緒に参内したのである。
陽安城内に入ると王礼里はとりあえず別室で待たされ、高寿蘭がまず皇帝に拝謁する。
その場には皇帝の他に、大将軍の丁義堅、丞相の白約楽、大司馬の益兼、大司農の回徳、御史大夫の劉監といった重臣達のほか、皇族で慶王の位に就いている法貴円と、同じく奉王の法角がいた。
高寿蘭はまず段珪への交渉の結果を報告した。
「夏臥単于は我が国に入朝することを拒否しました。かの者はすでに我が国に攻め込む準備をしております」
その報告は予想されたものであったが、それでもその場の空気は重くなった。
「やはり夏臥単于は黙って瑛に服する気はないか。となると、こちらも準備を急がねばなるまい」
「お待ち下さい。我が国はまだ遠征が可能なほど国力を回復してはおりません」
皇帝の言葉に、大司農の回徳が反論した。
「統一から三年、農民たちもやっと落ち着いて畑を耕せるようになったばかりです。あと五年、いえ、せめて三年は待たないと兵糧も満足に調達できません」
「ではその間、段珪に我が領土を蹂躪させるに任せるというのか」
今度は奉王の法角が、そう回徳に詰め寄った。彼は皇帝の従兄弟であり段珪討伐を最も熱心に主張していた。
回徳もいきなり法角にそう言われて、思わず反論した。
「そうではない。今はまだ遠征は無理だと言ったのだ。まず国境を固めて、国力を蓄えるのが先だということだ」
「しかし国境を固めると一口で申しても、段珪はどこからくるかわかりません。三年もの間、国境付近に守備隊を駐屯させるなら、それこそ我が国は滅びるでしょう」
今度は皇帝の弟である慶王の法貴円がそう言い、さらに言葉を続けた。
「と言って、確かに今の我が国の力では、段珪を完全に滅ぼすことは難しい。しかし幸いなことに、夏臥単于は自分から我が国へ来ると言っています。ならば当初の予定通りこちらに攻め込んできた相手を打ち破り、再び我が国へ侵攻する気力を失わせた上で、改めて交渉するのが上策でしょう。いかがかな、兄上」
「公の場では陛下と呼べ、貴円。しかしやはりそれしかないだろう。丁大将軍、白丞相、益大司馬。慶王の策により段珪に対することとする。子細を検討しておくように」
皇帝はそう言うと、再び高寿蘭の方を向いた。
「高大夫、そちが捕らえた白貂娘、王礼里は今度こそ本物なのだろうな」
「私は以前、白貂娘と共に働いておりました。間違いございません。もしお疑いになるのであれば、御史大夫が確認されることでしょう」
御史大夫劉監。彼こそ、奉が瑛に降った時の丞相であり、また王礼里を追い落とした人物である。
ちなみに瑛では、降った国の有能な人材が高官に抜擢されることは珍しい事ではなく、現に彼や高寿蘭のほかに、大司馬の益兼も瑛に降った渠の重臣だった。
さらに言うなら、彼の下で働いている九人の大夫階級は、高寿蘭を含め、五人が降伏した国の元重臣で占められていた。
劉監は高寿蘭から王礼里の事に関して名前を挙げられたため、眉間に皺を寄せた。
彼は白貂娘の事など関わりたくもなかったのである。
実を言えば王礼里は、元々は彼の雇った下女であり、彼が奉の国主平蘭史の孫娘であった平碧に献上したのである。
このため彼に言わせるなら、白貂娘などという大層な異名で呼ばれていようと、ただの素性の知れぬ成り上がり者に過ぎなかった。
ただし成り上がりという点に関しては劉監も人のことは言えない。
彼はもともと田舎の小豪族に過ぎなかったが、ある時、彼の元に途方もない幸運が転がり込んだのである。
彼の幸運を説明するには、当時の奉と瑛の前身である賢の国の話から始めなければならない。
当時、既に奉の国主だった平蘭史には二人の息子がいた。
名を平子尭、平子漢という。平蘭史は兄の平子尭を後継ぎと決め、弟の平子漢は同盟国の賢に人質として送った。
当時、こうした人質は普通に行われており、その人質の価値も当然、王の血統に近いほど重視された。奉としては強国の賢に攻められては困るため、平子漢を後継ぎということにして、賢に送ったのである。
賢としては奉のこの態度を喜び、賢の重臣だった法関兼の娘、法安里を賢の皇帝であった離中の養子とした上で平子漢の妻としたのであった。
人質といっても待遇は賓客扱いである。平子漢は賢で離安里との間に一人の娘をもうけ、碧と名付けた。
平子漢は賢の都でごく平和に暮らしていたが、平碧が二歳になった時、国元から驚くべき知らせを受けた。
兄の平子尭が亡くなったと言うのである。しかも平子尭には子供がなかった。
平子漢は自分が当て馬に過ぎないことを知っていたが、こうなっては彼が本当に奉の後を継がねばならないだろう。国外でのんびりしている場合ではない。といっても、やはり人質は人質である。そう簡単に国に戻ることはできなかった。
彼は機会を待った。そしてその機会が訪れた。平碧が四歳のときである。
賢の重臣だった法関兼が息子の法安才、法貴円と共に離中に対して謀叛を起こしたのである。
一時的に賢の都陽安は大混乱となり、平子漢に対する警備も緩んだとき、彼は妻と子を連れて陽安を抜け出すことに成功した。
彼はこの混乱が国中に広まるだろうと考えた。
しかし、法親子は用意周到に謀叛を起こしたため、混乱は一時的なものですんでしまい、法関兼は賢から禅譲をうけ、瑛という国を建てたのである。
やがて平子漢が脱走したことも法関兼の知るところとなった。
法関兼から見ると人質が自分の実の娘を連れて逃げたのである。
彼は国中に彼らを探させた。
平子漢は妻や幼い子供を連れていたこともあり、まだ当面は混乱は続くだろうと予想して奉までの旅を急がなかった。
しかし思っていた以上に事態は急速に鎮静化し、自分たちの手配書が出回っていることに気づき、すぐに奉との国境を超えることが困難になったことを悟った。
結局彼は国に帰ることができないまま、約三年の間隠れ住むことになったのである。
そして無理に国境を越えようとして瑛の兵士に見つかることとなった。
逃げようとした彼は妻子ともども崖の上から奔流の中へ飛び込み、必死に泳いだが、妻と子供を連れているため思うように進めず、瑛の兵士は彼らが流れに飲み込まれるのを見たという。
彼らは平子漢が死んだものと考えたが、実はその時点ではまだ死んではいなかった。
彼は反対側に流れ着き、意識を失って倒れていたところを、その土地の小豪族だった劉監に助けられたのである。
ただし平子漢もその妻もすでに虫の息だった。一時的に意識が戻った平子漢は近くにいた劉監に、娘の平碧を奉王の所まで連れていって欲しいと頼み、自分の持っていた印綬を渡した。
「この印綬と碧の持っている印綬があれば、国主は碧が自分の孫であると認めるだろう」
平子漢はそういうと再び意識を失い、二度と目を覚ますことはなかった。
劉監は平子漢と法安里の遺体に平碧を伴い、奉の国主平蘭史に拝謁を求めた。
ただし平碧は流れに飲み込まれたときに自分の印綬を落としたようで、助けた時点でそれを持っていなかった。
それでも平蘭史は平碧を自分の孫と認め、劉監を侯に封じた。
劉監は野心をもった男である。この機会を逃さず、国主に自分の有能さを印象づけた。実際彼には多少の政才と在り余る謀才があり、中央の官職を受けると、瞬く間に丞相にまで昇り詰めたのである。
このように劉監に実力があったのは事実だが、彼の出世の糸口は奉の国主の孫を偶然助ける、という幸運から始まったのである。
話はそれたが、とにかく彼にとって王礼里は未だに下女に過ぎなかった。
「高大夫が本物だというのなら、間違いないでしょう。私が確認するまでもありません」
劉監は平坦な声でそう答えた。
「そうか。しかし、彼女が本物なら、どう扱えばよいかな」
皇帝はそう言うと大将軍の丁義堅に目を移した。
丁義堅が白貂娘に対して好意を持っていた、という噂はこのころ広く知られていた。
中には、丁義堅ほどの名将が白廊関を落とせなかったのは、彼が手心を加えたからだ、と噂するものまでいたほどである。
皇帝としては噂の白貂娘と一度話をしてみたかった。しかし重臣たちに強く反対されては会いにくい。そこで彼女と確執のある劉監ではなく、好意を持っている丁義堅に尋ねたのだった。
しかし丁義堅の返答は、意外にも皇帝の望むものではなかった。
「白貂娘はこれまで全く姿を見せなかったにもかかわらず、今になって出てきたのは不審と言わねばなりません。早急な拝謁は控えた方がよろしいかと」
「ほう。以前おぬしは奉の国主を降したなら白貂娘も我が国に服するだろうと申したではないか」
「白廊関を守っていた頃の白貂娘がそう申していたのは事実です。しかしその後、我が方の策略のために彼女は刑を受け、非常な苦しみを経験しておるはずです。あの時とは状況が変わっております」
皇帝は考え込んだ。確かに丁義堅の言葉も最もである。彼女がそのことで復讐を企んでいないとは言い切れなかった。
「王礼里は瑛が賞金を出して探した犯罪人です。即刻、処刑するのが当然かと」
劉監がそう、まばたき一つせずに意見を述べた。
しかし丞相の白約楽はそれに反論した。
「そこまでする必要もありますまい。少なくとも自ら出てきたものを取り調べもせずに処刑するなら、民衆は不安を感じるでしょう。丁大将軍が心配するのであれば、まず囚人として隔離したうえで、尋問するのが妥当かと思います」
それに対して今度は回徳が発言した。
「王礼里は、今でも民の間で噂され、伝説のようになっております。このように一人の人物に注意が集中するのは、国家にとって災いの胤となりましょう。速やかな処分が肝要かと」
彼は皇帝以外のものが必要以上に注目される事の危険性を良く知っていた。
そのような者がやがて慢心し、不遜な態度を取るようになり、しまいには謀反を起こした例は数多くある。
しかしその意見に今度は奉王の法角が反対した。
「確かに白貂娘は武人として一流だが、あの娘と実際に戦った俺としては、白貂娘にそんな危険があるとは思えん。そもそも、まだ二十歳にもならない小娘ではないか。そんな娘を恐れていては、国など立ち行かぬわ」
その言葉を聞いて皇帝は苦笑した。
「口が過ぎるぞ、角。よい、明日拝謁する事とする。それまでに身を清めさせておくように」