第二章 白貂娘、皇帝に拝謁する 1
奉の将軍、白貂娘の王礼里。
この名前は、彼女が行方不明になってから三年ほどしか経過していないにも関わらず、すでに伝説的な印象を持って語られている。
彼女、という言葉が示す通り、この国では珍しく女性の将軍であることも関係していた。
しかし、それ以上に彼女を特異な存在とさせたのはその若さと実績だった。初めて兵を指揮して城を敵兵から守ったのは、弱冠十二歳のときと言われている。
その後、幾つかの戦を経て彼女の名を全土に轟かせたのは白廊関の攻防戦である。
大国瑛の大軍を一年余りの間、白廊関に釘付けにしたのである。
結局、瑛は白廊関を力攻めで落とす事を諦め、謀略で落とす事とした。
当時、奉は瑛に対抗するため、隣国である慶と同盟を組んでいた。しかし慶は瑛の強さを恐れ、密かに瑛に通じ、その軍門に降ることを約束してしまったのである。
瑛はこの慶を通して、奉の朝廷内に白貂娘が瑛と通じている、という噂を流した。
同時に白廊関に篭る白貂娘本人に対しては、度々、軍使を遣わした。それは降伏を勧める使者であることもあれば、ただの軍中見舞いであることもあった。
白貂娘は当然のごとく降伏勧告についてはきっぱり退ける。
しかし彼女はたびたび訪れる軍使をその都度丁重に扱った。
それはあくまでも敵国とはいえ礼をもって接してきた相手に礼をもって返したに過ぎない。
実を言えば彼女の性格上、そのように扱うだろうと敵方に見透かされていたのであるが、さすがにそこまでは気づかなかった。
一方奉の朝廷内にも、王礼里を疎ましく思っている者がいた。特にその頃、丞相として奉の実権を握っていた劉監は、彼女がこのまま功績を上げ続ければ自分にとって脅威になると考えていた。
そんな折りに、白貂娘に対する悪い噂が流れ、さらに白廊関にいる自分の部下からは、白貂娘が瑛の軍使を丁寧にもてなしている、という情報が入る。
彼はすぐにこれらの話を国主平蘭史に伝え、早急に白貂娘を都へ召還するように進言した。
最初は国主もその話を取り合わなかったが、他の筋からも似た話を聞くにつれ、不安を感じるようになった。
そしてついに彼女から、瑛からの降伏を勧める書簡が送られてきた。
彼女自身はあくまでも瑛の軍使が国主宛てにと持ってきた書簡を送り届けたに過ぎない。
しかし周囲より彼女の危険性を聞かされ続けていた国主は、ついに彼女を都へ召還するよう命を下した。
彼女の代わりに白廊関の新しい守将に選ばれた広漢決は、この命令を受けるとすぐさま実行に移すため白廊関へと向かった。
彼は以前、白貂娘と戦略上のことで意見が食い違ったことがあった。その時は結局、広漢決の意見が採用されたが、その結果奉軍は大敗を喫したのである。
それ以来、人々はそのことを陰で噂するようになり、広漢決はそのために白貂娘に怨みを抱くようになっていた。
このため広漢決はこの交代を復讐の機会と考えた。
彼は白廊関に到着すると直ぐに彼女を捕らえ、全軍の前で彼女が気絶するまで鞭打ち、さらに彼女の右耳を削ぎ、顔に焼き鏝を入れたとも伝えられている。それから、彼女を医者に見せることもせず、そのまま監車に乗せて奉の都である鄭安へと向かわせた。
また彼は白貂娘が瑛と通じていたと信じていたため、彼女が罪を得て軍職を解かれたことを白廊関の前に陣取っていた瑛軍にも伝えた。
彼はそうすることで味方を引き締め、また敵の意気を挫くことになると考えていた。
しかし結果は全くの逆であった。
広漢決の処置は、味方の士気を挫き、敵の士気を高めただけであった。
さらに言うなら広漢決は奉国随一の猛将であったが、しかし名将ではなかった。
瑛の総大将であった丁義堅は、ここぞとばかりに兵士たちに広漢決の悪口を言わせた。広漢決はあっさりとその挑発に乗り、怒り狂って白廊関から打って出たのである。
丁義堅は巧みに戦いながら広漢決を白廊関から引き離し、別働隊をもって白廊関を落としてしまった。
それに気付いた広漢決は慌てて軍を返そうとしたが、すでに間に合うはずもなく、そのうえ白貂娘に心服していた兵士たちが、その日の広漢決の彼女に対する仕打ちを怨み、乱戦の中で彼を討ち取ってしまった。
結局、白貂娘の王礼里を失った白廊関は一日と持たず落ちることになった。
その余りの呆気なさに、丁義堅はかえって白貂娘の策略ではないかと疑ったほどである。
改めて白廊関の落城が間違いないことを確認した丁義堅は、素早く奉の国内の拠点を押さえ、五日後には奉の都である鄭安を囲み、国主平蘭史は国を明け渡すこととなった。
丁義堅はそのように兵を進めると同時に白貂娘の行方を追った。
白廊関に残っていた奉の兵士たちの証言により、彼女が半死半生のまま監車に乗せられて鄭安に向かったところまでは判った。
しかし彼は結局彼女を見つけられず、国には恐らく彼女の見張り役の兵士たちが彼女を助けるためにそのまま逃げ出したか、あるいは死んでしまった可能性もあると報告した。
どちらにしろ彼女の生死の確認はできなかった。
瑛では降った国の高官や将軍が恭順の意を示せば、それなりの地位が与えられたが、正当な理由もなく逃げたり隠れたりする者に関しては、叛意ありと判断して官吏の厳しい追及が行われ、また時には賞金が懸けられて広くその人物を探し出した。
丁義堅は、王礼里を逃亡者として扱い、その首には千金の賞金が懸けられる事となったのである。
それ以来、幾度か白貂娘を名乗る者が現れて乱を起こそうとしたり、また白貂娘を捕らえたと言って賞金を受け取ろうとする者が出てきたが、その全ては偽者だった。
やがて他の逃亡者、賞金首に関しては、そのほとんどが捕まるか、又は国外に逃走したことが確認されていたが、白貂娘の王礼里についてはその足取りが煙のように消えてしまっていた。
ただし彼女に関しては、瑛の上層部が彼女を捕らえることに他の者の場合より執着しなかったのも事実である。
彼女は奉が降る前に、すでに奉により罪人として扱われていた上、広漢決により半死半生の状態だったことも確認されている。彼女に対する賞金はいわば手続き上のものであり、ほとんどの者は、彼女はすでに死んでいると考えた。
その白貂娘の王礼里を、段珪への使節団が見つけたという。しかも今回は、彼女と同じ国にいた大夫の高寿蘭が連れてくるというのである。
今度こそ本物の白貂娘が見つかった、という噂は瞬く間に瑛の都、陽安に広まった。
王礼里という本名より、白貂娘という異名の方が都では有名であった。
王礼里という名前は賞金首として知られていたが、白貂娘という呼び名は彼女と白廊関で対峙した瑛の兵士たちを通して、伝説のように語られていたのである。
例えば白廊関の攻防戦中に、瑛の指揮官であった丁義堅が「白貂娘は奉軍だけでなく我が瑛軍まで味方にしてしまった」と語った、という噂がまことしやかに語られていた。
この発言の真偽はともかく、丁義堅が、王礼里が白廊関にいる限りはそこを抜くのは難しいと考えたのは事実である。
彼は謀略により白廊関の守将を交代させる手段を取った。ただし丁義堅も白貂娘がいきなり半殺しの目に遭うとは考えていなかった。
彼自身が自分を戦場で破った王礼里に対してある種の尊敬を抱いていたのは事実であり、奉を降した暁には、彼が白貂娘を自分の妻にしようとしている、という噂が流れた時も、笑って無視したと言われている。
とにかく陽安の人々は噂の白貂娘を一目見ようと帰ってくる使節団を待ち構えた。
しかし彼らは都に入ってきた王礼里を見て失望した。兵士たちの話では目を見張るほど美しかった事になっている彼女も、今は顔には覆面をし、服も彼らから見るならぼろぼろの汚い服であったからである。
ただその乗っている馬は素晴らしかった。全ての物が集まると言われる陽安の人々も、これほど見事な馬は見たことがない、と囁きあった。