第十三章 丁義堅、宋蘭楽に西方都護について語る 2
元々、習家は学者の家系である。
中でも「涼史」を編纂した習陸と、その息子で今は太史令の職に就いている習敬が最も有名である。
そして習休はその習敬の弟だった。彼は学者の家に育ちながら、昔から侠客と交わりを持ち、彼自身も若い頃から勇名をもって知られていた。
といって、彼が学問嫌いだった訳ではない。ただ、彼が学ぼうとしたのは、彼の家の学問とは違うものだったのである。
彼が陽安でも最も名の知れた侠客である、蘇玄という人物の元にいたときの事である。ふらりと一人の男が、蘇玄の元を尋ねてきた。習休はその男を見た途端、彼に釘付けになってしまった。
まず服装が違う。一目見て異国の者と分かる出で立ちであった。そしてその髪の色は金色で、目は青く輝いていた。
蘇玄はその男と知り合いだった。
昔、彼は一人で西域を旅した事があり、そのときに、この異国の男を助けたことがあったそうである。その男は名前を世史留といった。
習休は直ぐに、世史留に彼の国について色々なことを尋ねた。その一つ一つは習休にとって初めて聞く話であり、驚きの連続でもあった。
世史留の話では、彼の国は、いわゆる西域よりもさらに西にあるという。その国の名は洋覇といい、何カ月も砂漠を旅しないと彼の国にはいけないという。
その国の中には幾つもの都市があり、その都市一つ一つにいる領主が自分の都市の周囲を治め、彼等は時に戦い、時に和睦しながら一つの文化を形成しているという。
習休は世史留が蘇玄の家にいる間、毎日彼の元を訪ね、さらにその国の風習や文化、国語などを根掘り葉掘り世史留に尋ねた。そしてやがて彼は、その洋覇という国へ行ってみたい、という夢を抱くようになったのである。
しかし、その頃は洋覇に行くどころか、西域との交流すらまれだった。
当時の権力者である回越は、金のかかる西域経営に熱心ではなく、かつ人材の流出を防ぐために、勝手に人が国外に出ることを厳しく禁じていたからである。
また、習休の父や兄も、彼が自国の事よりも、異国に関心を寄せていることを、快く思わなかった。このため、習休が勝手な行動を取らないよう、屋敷の彼の部屋に軟禁してしまったのである。
やがて法氏による政変が起きた。
この時、習休は特別に皇帝法関兼に呼び出され、陽安の治安維持を丁義堅と共に行う様、命ぜられた。
彼を推薦したのは白約楽だった。
白約楽は、習休が陽安の顔役である蘇玄と親しいことを知っており、彼を味方にすることで、人心の動揺を最小限に抑えようとしたのである。
そして、彼はその期待通りの働きをした。
途中で丁義堅が周辺の反乱を抑えるために抜けた後も、彼は一人で陽安の都を首尾良く治めたのである。
彼はこの活躍のため、瑛の朝廷でも一目置かれる存在になった。
この時期をとらえて、彼は西域経営の重要性と、西方都護の復活を上奏した。最初は無視されたが、彼は繰り返し上奏し、皇帝が法安才に代わり、天下統一が成し遂げられるに及んで、やっと彼の意見は日の目を見ることになった。
彼はついに初代の西方都護となり、洋覇への夢の第一歩を踏み出したのである。




