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国なき娘~白貂娘異聞~  作者: いちたすいち
第二部 策謀編
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第十二章 宋蘭楽、丁義堅の見舞いへ向かう途中で興魏と会う 1

 (えい)段珪(だんけい)の和平は、(えい)高寿蘭(こうじゅらん)段珪(だんけい)紗無波(しゃむは)が互いの国を行き来して骨を折った結果、光玄(こうげん)十年の四月にやっとまとまった。

 その内容は(えい)にとって不利なものだった。


 それは簡単にいえば、平和を金で買う、というもので、はっきり言えば(えい)にとっては屈辱的なものである。


 最初、(えい)が行った提案は、段珪(だんけい)(えい)の臣として使者を毎年入朝させ、(えい)はその時、段珪(だんけい)に絹五万匹、銀三万両を送るというものだった。

 しかし段珪(だんけい)側は戦で負けたわけではなかったため、(えい)の臣と称することを拒んだ。そして過去の事実を引き合いに出したのである。


 段珪(だんけい)族は意外と歴史の古い民族だった。

 過去には統一王朝の(りょう)とも和平条約を結んだことがあった。

 その際、(りょう)から段珪(だんけい)へ公主が単于へ嫁いだこともあり、両国は互いに叔父と甥の関係にある、ということになったのである。


 段珪(だんけい)はこの旧事を取り上げた。

 自分たちは中原正統であった(りょう)の甥である以上、(りょう)の正当な後継者に対しては伯父とならなければならない、と言ったのである。

 つまり、段珪(だんけい)は言外に(えい)の正統性を問題にしたのであった。そして、この段珪(だんけい)の一見、不遜とも言える主張が、(えい)の上に重くのしかかることになったのである。

 なぜ、(えい)が自分達の正統性についてこだわるのか。

 元々、(えい)(けん)から禅譲を受けて建国された。禅譲と言えば聞こえは良いが、実際には纂奪である。もちろん、自分達の記録を残すに当たっては、その禅譲が正当なものであったとする。

 しかし、記録は自分達だけが残している訳ではない。特に、段珪(だんけい)族も最近は様々な文書を用いるようになっている。その段珪(だんけい)が、(えい)は正統の中原国家ではない、という記録を残したならどうなるか。

 もちろん、それだけで(えい)の正統性が覆る訳ではない。しかし、(えい)の正統性に対して疑問視する意見が、将来の歴史家によって論じられることになるのは明白である。


 彼らにとって、歴史に悪名を残すことは死よりも辛いことであった。このため(えい)は、自分たちが中原正統であることを疑われるようなことは、極力避けようと考えていたのである。


 もちろん、(えい)段珪(だんけい)を討伐するだけの実力があれば、そのような心配はなかった。しかし、その実力がない以上、段珪(だんけい)の主張を無下に退けることはできなかった。

 しかし(えい)としては、段珪(だんけい)を伯父と呼ぶことも避けたい。そこで、妥協案として、(えい)を兄、段珪(だんけい)を弟とする兄弟関係とし、代わりに段珪(だんけい)に対する歳弊を絹十万匹、銀八万両とすることを申し入れた。つまり、歳弊を増やす代わりに、伯父ではなく、せめて弟にしてくれと言ったのである。


 実を言えば、段珪(だんけい)としては(えい)との関係などどうでも良かった。ただ夏臥(かが)単于(ぜんう)は、この問題を突き付ければ、必ず歳弊の釣り上げができると考えたのである。

 そしてその思惑は見事に当たった。

 実際、(えい)を兄と言うだけで絹十万匹、銀八万両が手に入るので、夏臥(かが)単于(ぜんう)としても、(えい)に戦を仕掛けた甲斐があったわけである。

 この辺り、夏臥(かが)単于(ぜんう)の方が外交上手だったといえるだろう。


 (えい)としては、辛うじて段珪(だんけい)に対して上位の立場になることができたが、段珪(だんけい)に対する歳幣は(えい)の経済力を圧迫する。そして、(えい)はその支出分を豊かな南華地方に求めた。


 南華地方とは、前述したとおり、陽河(ようが)流域を中心とする中原地方に対して、南にある氾江(はんこう)一帯の広い範囲を差す。


 遥か昔は、陽河(ようが)一帯が政治、農業、文化の中心地であり、そこで数々の大国が国を築いては滅んできた。その頃、南華地方といえば、未開の地であり、後進地域だった。

 しかし、時代と共に、戦乱に巻き込まれやすい陽河(ようが)流域は土地が荒れ、人々は氾江(はんこう)流域へと移り住むようになった。

 特に涼が滅んだ後は、戦争が続いた中原に比べて、南華は大きな戦も少なく、飛躍的に農商業が発達したのである。また、涼の皇族の一人だった劉敬(りゅうけい)という人物が、氾江(はんこう)下流域に新たに(りょう)(後に南涼(なんりょう)と呼ばれる)を建国し、そこで北から持ち込んだ様々な文化を成熟させたのであった。南涼(なんりょう)はこの後、希彪無という人物に纂奪され、さらに喬築(きょうちく)(きょ)に滅ぼされる。

 しかし喬築(きょうちく)は、その際に南涼(なんりょう)に継承されていた(りょう)の様々な文化は保護し、それを(きょ)で引き継ぎ、育てた。

 さらに渠と氾江を挟んで南側の(てい)では、詩や詞に長けた君主が続き、この国でも(きょ)と競うように、そうした文化を発展させていった。

 このため、今では南華地方が(えい)の農業、商業、文化の中心地となっていたのである。


 ちなみに、南華地方には、(えい)の統一前には(さい)(きょ)(てい)(けい)の四つの国があった。

 中原地方はそれ以前に、すでに(けん)によってほぼ統一は完了しており、(えい)が禅譲を受けた時点で残っていたのは東の海沿いにあった(かつ)だけだった。

 ちなみに(ほう)は西の山岳地帯にあり、中原地方にも南華地方にも含まれない。


 とにかく、そうした背景もあり、南華地方の人々は中原地方に対する対抗心が強く、特に、(きょ)が治めていた付近は複雑であった。

 元々その地に住む人々と、(りょう)の滅亡の際に中原から逃げてきた人々の対立が未だに続いていた。

 その一方で、自分たちが本当の正統な涼の後継者であるという自負をもち、しかし実際には自分たちは(えい)に頭を下げなければならないという現実への不満がくすぶり、結果として、自分たちこそ正統な文化の継承者であるという誇りと(えい)に対する歪な優越感になっていた。


 そこに今回の北伐の失敗と、多額の歳弊の問題が浮上した。もちろん、(えい)の国全体でその負担を担うことになるが、豊かな南華地方の負担が最も大きくなるのは目に見えているのである。

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