第十章 俱留盃、命を犯して顕広を伺う 2
「問題はどうやってここを脱出するかだ」
宋蘭楽は、顧謝中と霊顕尺にそう言った。
先程まで行われていた軍議は、顧謝中と彪義挙の口論で物別れに終わったが、とにかく現状を打破するには両軍が力を合わせなければならない。そしてそのためには、まず相手を説得できる作戦を考えなければならないのである。
「本陣に残っている軍は我々を助けに来ないでしょうね」
「助けるどころか、おそらくは本陣も攻められて、今ごろはもう落ちてるだろう」
王冠計が本軍を全て率いて出てきたのなら、陣に残っている兵はせいぜい一万5、6千と言ったところである。夏臥単于が軍の一部を割いて攻めさせたなら、持ちこたえられないのは火を見るより明らかだった。
「失礼だが、奉王は勇敢だが匹夫の勇にすぎん。持って半日と言ったところか」
霊顕尺はそう予想した。
「覚監軍が都に使者を送っていたようだが、都から援軍は来ないでしょうかね」
「援軍など期待できないな」
顧謝中の言葉に宋蘭楽はそう答えた。
確かに援軍を送るための準備はするだろう。しかし、そう易々と大軍を集めて動員できるわけではない。それができるなら、最初からその圧倒的な兵力で段珪を制圧しようとしただろう。
そしてもう一つ、今の瑛には、その大軍を指揮できそうな、めぼしい人物がいないのである。
「兵がいても、それを率いて戦える人物がいなければ、いないも同じ事だ」
「楊少傅などはいかがです」
霊顕尺の挙げた名前を聞いて、宋蘭楽は鼻で笑った。
「本気で言っているのではないだろうな。あの爺さんがでてくるなら、俺はすぐに軍を抜けて王の親父に全軍を任せるぜ」
宋蘭楽は吐き捨てるようにいった。
彼がそう言ったのには訳がある。
宋蘭楽の祖父は一兵卒として、楊猛の指揮下で戦っていた。
その祖父から聞いた話では、楊猛という武将は、良く言えば勇猛果敢な人物であったが、むしろ猪武者と評すべき人物であり、兵の間では評判が悪かったという。
兵法書を暗記していることが自慢であったが、それを応用できない人物、と陰口を叩かれていたとも言われている。
彼は小さい頃からそうした話を聞かされていたため、楊猛という人物を全く評価していなかった。
もし、彼の戦い方も似たようなものだと言う人がいたなら、彼は激しく否定したであろう。
その正否はともかく、彼の聞かされていた話が、さほど事実から遠くないことは、ほとんど年齢の変わらない王冠計が軍に残っているにもかかわらず、楊猛は少傅という閑職に置かれていることからもわかる。
「だからこそ、ここにいる全兵の指揮権を将軍が握るべきなのだ」
顧謝中は激しくそう言った。
「彼らは所詮、自分の地位を守ることに汲々としているにすぎません。事の重大さを理解していないのです」
顧謝中の言葉を軽く受け流しつつ、宋蘭楽はいかにして夏臥単于の裏をかいてここを逃げ出すか、という問題に思いを集中させていた。
たとえ王将軍配下の兵を合わせることが出来ても、おそらくここに逃げ込めた兵は八万程度にすぎない。
約二十万の段珪軍の包囲網に真正面から突っ込めば、全滅の恐れもあるだろう。そうなれば、夏臥単于はその勢いを駆って顕広を始めとする国境付近の街を攻撃し、瑛は存亡の危機にさらされることになる。
宋蘭楽はあまり人付き合いが良くなく、そのために誤解を受けることが多かった。しかし、多くの者が考えているように、手柄と出世の事しか頭にないという人物ではなく、むしろ、いかにして自軍を勝利へ導くかを念頭において戦う男だった。
王冠計との確執も、専らその戦術に対する考え方の対立であり、彼にしてみるなら、王冠計を個人的に嫌っている訳ではなかった。
「結局、俺もこの程度か」
彼は心の中でそう考えた。現状を打破する妙策が思い浮かばないのである。夏臥単于が何かを仕掛けてくればまだ可能性がある。しかし、段珪軍は包囲するだけで、全く動く気配を見せなかった。
「俺は、今まで丁将軍の元で十分働いてきた。軍を率い策を弄して、幾多の戦で勝利を収めてきた。しかし、そのどれも結局は丁将軍がいたからがこそ、というわけだ」
丁義堅は宋蘭楽の出し抜きを常に諌めていた。しかし同時に、宋蘭楽のそうした独断専行を、最大限に生かすことのできる人物でもあったのである。
その丁義堅がいない今、彼は瑛軍の中で完全に浮いたものとなってしまうだろう。
「そろそろ年貢の納め時かな」
自分を理解してくれる人物がいない以上、たとえここを生きて脱出できたとしても、瑛軍に留まることは難しいであろうし、留まることができても、今までのような活躍はできないだろう。なにより、丁将軍に匹敵する人物の下で働けるとは思えない。
「とにかく、先のことより今をどう切り抜けるかだ」
宋蘭楽はそう自分に言い聞かせて再び打開策を考え始めた。




