第一章 高寿蘭、段珪へ赴き夏臥単于とまみえる 2
まだ雪の残る、荒涼とした草原を北へ向けて旅をする瑛の使節団が、遥か先に見えていた小さな物体が石造りの小屋であることに気付いた時、彼らの中に軽い驚きが走った。
段珪を含む、北方の遊牧民は、良い草を求めて移動するため、折畳式の天幕に住むことが多く、石造りの家に住む、ということはまずないからである。
使節団の代表で、一行の指揮官でもあった高寿蘭は、四十代の恰幅の良い男であった。彼は、こんな辺鄙なところに住んでいる変わり者に興味を持ち、回光というまだ若い副官に、その小屋の住人を連れてくるように命じた。
回光もその小屋に興味を持ったため、直ぐに二人の兵士を連れて、その小屋へと馬を走らせた。
小屋はごく小さく粗末な作りであり、外から見た限りでは、せいぜい人一人が辛うじて寝起きできる程度のものであった。屋根は毛皮を継ぎ足した物を石で押さえてあり、入り口らしき所にも、同じく毛皮が掛けてあった。
回光は馬から降りて、改めて小屋とその周辺を眺めた。
「どなたか中に居られるか」
そう、外から大声で呼んでみたが、中からは返事はなかった。彼は思い切って入り口に掛かっている毛皮をめくり、小屋の中を覗いてみた。始めは暗くて何も見えなかったが、やがてそこに、粗末な寝床と竈があるのがみえた。寝床の横には胡弓が立て掛けてあり、また竈には火種が残っている。まだ人が住んでいる証拠である。
「どうやら、いま、この家の住人は留守にしているようだ」
そう言いながら、回光は小屋を出た。
「瑛では、留守であれば他人の家に勝手に入ってもよいのですか」
突然、凛とした声がしたので、回光と兵士たちは驚いて声のした方を向いた。すると、少し離れたところに、見事な栗毛色の馬に乗った人物が佇んでいた。顔には覆面をしており、右目以外は完全に隠れている。声の感じでは女性のようでもあったが、なにしろ顔は見えず、その上ゆったりとした服を着ているので断言はできなかった。背が低いのであるいは少年かもしれない。
回光がそんな事を考えていると、兵士たちは突如現れた正体不明の人物に警戒し、剣を抜いた。彼は直ぐにそれを制して、馬上の人物に近づいた。
相手は回光が近づいても馬から降りようとはしなかった。腰には細身の長剣を差しており、背中には弓矢も見える。回光は、相手がいきなり自分に切りかかるのではないか、とも思ったが、相手の瞳を見た時、その心配は消えた。少なくともそうした不意打ちをするような人物の目ではなかった。
「申し訳ない。私は瑛が段珪へ派遣した使節団の副官で、姓を回、名を光という者である。このような地で石造りの家を見つけたので、我々の長である高大夫が関心を持ち、是非、住人に会いたいとの事である。すぐにご同行願いたい」
しかし、その回光の申し出に対し、相手はすげなく断った。
「私は高大夫の部下ではありません。もし私に会いたいのであるなら、大夫自らこちらへいらっしゃるのが礼儀ではないでしょうか」
そう言われて、回光は言葉に詰まった。どう見ても年下の相手に礼儀を問われては、彼も立つ瀬がない。自尊心を傷つけられた彼は、無言のまま彼女に背を向け、自分の馬に乗ると、そのまま使節団の元へと戻っていった。兵士たちはそれを見て、慌ててその後を追うことになった。
使節団に戻った回光は、詳細は伝えず、ただ、高寿蘭にこう言った。
「全く無礼な奴でした。大夫がお気に止めるほどの者ではありません」
しかし、高寿蘭はさらに詳細な点を回光から聞きたがった。
「ほう、それで、その者は何と言ったのだ」
回光は一瞬、躊躇したが、素直に答えた。
「会いたいのであるなら、大夫自ら来いと」
「ははは、そんな事を言いおったか。まあよい。儂、自ら出向くとしよう」
高寿蘭はそう言うと、回光が止めるのを無視して使節団を小屋の方へと向かわせた。
小屋の前では、先ほどの人物が既に馬から降り、立ったままで彼らを待っていた。
「先ほどは不遜なことを申して失礼いたしました。私は姓を亮、名を塩と申す者です。事情があって、このような場所に女一人で住んでおりますので、人と会う時は少し警戒してしまうのです」
亮塩と名乗った女性は、一礼してそう高寿蘭に弁解した。その立ち居振舞いを見て、高寿蘭はこの女性が只者ではないことを察した。
このような場所で、若い女性が一人で生活しているということは、彼女が瑛には住めず、かといって段珪へも行きたくない、と考えていることを意味している。さらにその顔の覆面は、他人に顔を見られたくないからに違いない。そう考えると、亮塩という名前も、世を忍ぶ仮の名であると考えた方が自然であった。
しかし高寿蘭はそうした考えを表には出さず、自分も彼女に話しかけた。
「なんの、こちらこそ礼を欠いて失礼した。まだお若いようだが、なぜこんな辺鄙なところに住まわれているのかな」
「心の整理をつけるためにです」
「ほう、心の整理を。よろしければ聞かせて頂けぬか」
しかし亮塩はそれを話そうとはしなかった。反対に、高寿蘭に質問をした。
「段珪の夏臥単于の元へ伺うと聞きましたが、瑛を代表する使節の割には、ずいぶん小規模のようですね」
「確かに。まだ、我が瑛は、戦乱の時代から完全に回復していないので、これで精一杯なのですよ」
「回復はしていなくても、段珪との雌雄は決しておかなければならない、というところですか」
高寿蘭は、亮塩と名乗る女性にずばりそう言われて、心の中で驚いた。今回の使節団の表向きの役割は、段珪との間に不戦の盟約を結ぶことである。しかし、本当の役割は、亮塩が言ったとおり、段珪に対する服従か戦争かの宣告であったのである。
当然、夏臥単于という人物の性格上、使節団が全員、捕らえられる可能性もあるため、規模を大きくはしなかったのである。
「ははは、そんな物騒なことではありませんよ。段珪はしばしば瑛の領域に進入し、略奪を働くので、夏臥単于との間に不戦の盟を結んで、民が安んぜられるように、ということです」
高寿蘭は内心の驚きを注意深く隠し、そのように答えた。しかし、亮塩は構わずに話を続けた。
「夏臥単于は野心の強い男です。長年分裂していた段珪の民を十年かけて一つにまとめ上げた手腕も軽視すべきではありません。彼はすでに、瑛へ攻め込むことを決めております。もし、瑛の国力弱しと判断したなら、必ず大軍を率いて南下を開始するでしょう。強しと判断したなら、瑛の国境付近での略奪を繰り返して挑発し、瑛軍を自分達の地へ引き込んで、有利な条件で決戦をしようとするでしょう。どちらにしても、この使節団は、夏臥単于に戦争の口実を与え、瑛は有能な家臣を失う結果となるだけです。悪いことは言いません。ここから瑛に引き返すことをお勧めいたします」
またもや高寿蘭は驚かされた。彼女の慧眼もさることながら、その堂々とした話し方は尋常なものではなかった。そして、彼にはその彼女の目と声に覚えがあった。
亮塩の引き止めはあったが、使節団は皇帝の命を受けて夏臥単于の元へ行くのである。ここまで来て無断で戻ることはできない。結局、一行は再び夏臥単于に会うために北へと向かった。
高寿蘭は亮塩に礼を言った後、声を潜めて次のように語った。
「もし、運良く夏臥単于の元より戻ることができたなら、私があなたを都までお連れしましょう。ただ、その時にあなたが家を空けているようなら、あなたを待たずに都へと向かいます」
亮塩はその意味を悟ったかのように、その右目で高寿蘭に微笑みかけ、
「ご配慮、ありがとうございます」
とだけ言った。