第九章 法角、殿を務めて本陣を捨て、顕広へと戻る 1
話は少し戻る。
瑛の北伐軍の陣営は冷たい空気が支配していた。
丁義堅が倒れた後、王冠計が全軍の指揮をしていた。
本来は王冠計と同列であるはずの宋蘭楽は、最初のうちは大人しく彼の命令に従っていた。しかし、本陣が立てられて、いよいよ段珪と戦うための軍議が開かれると、二人の対立は明白なものとなった。
これまでも軍議において二人の意見がぶつかることは珍しくはなかった。
しかし最終的な決定権は総大将である丁義堅にあり、彼が決断を下したなら、少なくともそれ以上二人が反目しあうことはなかった。
しかし、今回はその丁義堅がいないのである。
王冠計は守りを重視して、段珪が瑛の地に入らないように戦略を立ていた。
しかし、宋蘭楽は兵糧が乏しいことを理由に、野戦での即決を主張し、そのための戦略を立てたのである。どちらも一長一短がある。
今までならここで、丁義堅がどちらか、もしくは別の腹案を持ち出すことで、二人の対立に終止符が打たれるわけだが、この度はそのような決断を下せる立場の人物がいなかくなってしまったため、軍議はいつ果てるともなく続くこととなった。
意味のない軍議が続くことに業を煮やした宋蘭楽は、段珪の軍に動きがある、という情報をつかんで、とうとう十万の本隊のうち五万を率いて勝手に出陣したのであった。
彼の掴んだ情報は段珪の援軍が到着する、というものだった。そこで彼は、その援軍を逆に叩いておこうと考え、夜間密かに陣を離れて敵の援軍の通り道へと向かったのである。
宋蘭楽は昔から、そうして他人を出し抜こうとする癖があった。丁義堅はその都度、彼を叱ったが、彼がそうして独断専行する場合は、これまで常に戦功を立てていたため、軍規違反の罪は、そうした戦功によって帳消しにされることが多かったのである。
しかし、今回は宋蘭楽に一つの誤算があった。それは敵にではなく味方に対する誤算であり、つまり自軍に丁義堅がいない、ということである。
これまでは丁義堅が彼のそうした独断によって動いた戦局を素早く利用していたのだった。
しかし、王冠計は丁義堅ほど柔軟な対応はできなかったのである。
「例え生意気な小僧でも味方は味方。それに陛下から預かった大事な兵を、無駄死にさせるわけにはいかん」
王冠計はそういうと残る五万の兵を率いて、宋蘭楽を支援するために出陣した。
そしてそのことが彼らにとって大きな災いとなったのであった。
もし丁義堅が健在だったなら、宋蘭楽は今回のような無理な作戦は立てなかったであろう。また、立てるとしても、もっと少数の兵で目立たないように行ったであろう。しかし、王冠計に対する対抗心から、自分には本隊の半分の指揮権がある、と考えて、およそ隠密行動には向かない五万という大軍を連れ出したのである。
そしてまた、彼のその独断に対して、丁義堅ならば敵の本隊の目を反らすための行動に出たであろう。しかし、王冠計はそうではなくみすみす宋蘭楽の動きを敵に知らせるような行動を取ってしまったのである。
こうした一連の失策を段珪の夏臥単于は見逃さなかった。
素早く兵を動かして王、宋の両将軍の軍を包囲し、大いに破ったのである。
彼らは本陣への帰路を断たれ、追われるように灰山の谷間へと逃げ込んだのであった。
回光と白貂娘が出発しようとしたとき、さらに新たな情報が入った。
それは本陣も攻撃を受け、支え切れないと見た法角が残った兵をこの城まで引かせる事を決め、彼自身が子飼いの兵と共にしんがりとして残った、というものだった。
「では、段珪軍がこの城までくるのは時間の問題と言うことですか」
普段あまり困った顔をしない許虔も、この時はさすがに顔を青ざめさせた。
「なんということだ。丁将軍がいないだけでここまで我が軍が脆くなるとは」
回光もそう言って空を仰いだ。
「これでは、出発しても仕方がありません。まずは退却してくる兵をまとめて、改めて対策を練りましょう」
白貂娘のその言葉に、二人は同意した。
やがて、退却してくる兵達が続々と顕広の城に到着した。
一時は動揺していた許虔も、そのころには普段の調子を取り戻し、それら退却してくる兵の受け入れと籠城戦のための指示を部下に命じた。
そして、回光と白貂娘へ、これから攻め寄せるだろう段珪軍と戦うには、まず負けて帰ってきた兵士達の戦意を鼓舞しなければ始まらない、と言った。
「しかし、この最悪の状況でどうやって兵士の戦意を高められるというのですか」
回光は許虔にそう尋ねた。しかし、許虔はその反応をさも意外そうに眺めると、こう言い始めた。
「こちらにはまだ段珪の知らない切り札があるではありませんか。これを使えば戦意も揚がること間違いなしですよ」
「その切り札とはなんですか」
今度は白貂娘が質問した。
「まあ、こちらへ来てください。そろそろ退却してきた兵も集まってきたことでしょう」
そう言って彼は二人を連れて役所前の広場へと出ていった。
そこにはすでに千人以上の兵士がひしめき合っていた。
そして彼はそこで兵士達に演説を始めた。彼はまず彼らの労をねぎらい、さらにこの城で段珪の軍を食い止めなければ、故郷は彼らによって略奪され、滅ぼされるだろうという類の事を伝えた。
「なんとしてもこの城で段珪を食い止めなければならない。幸いなことに、英邁なる皇帝陛下は我々のために新たな指揮官を遣わしてくだされた」
白貂娘は許虔のその言葉に、彼の言う切り札が自分のことであるのを悟った。
案の定、許虔は横にいた白貂娘を指差して言葉を続けた。
「白貂娘こと、王礼里参謀である。常勝丁大将軍をたった二百の兵で撃退した戦歴を持つ王参謀こそ、この危機的状況において我々が仰ぐべき指揮官ではないか」
その許虔の言葉に、そこにいた兵士とそれを見ていた民衆の中から賛同の声が漏れた。




