第八章 白貂娘、関北郡へ向かい興魏と対話す 3
回光はこの関北太守である許虔という人物がどうも好きになれなかった。
許虔は現在、三十九歳であり、回光よりも年上である。しかし生真面目な回光の目から見ると、許虔の態度が不真面目に見えて仕方がないのである。
一方、許虔はこの回光という名門出の若者が気に入っていた。少し頭は堅いが、将来の瑛を担い得る人材である。別に彼に取り入って出世しようなどと考えているわけではない。ただ、許虔は有能な若者を見ると非常に嬉しくなるのである。
このため彼としては、回光がもう少し肩の力を抜いてくれればと考えて、彼に接するときは少しくだけて見せたのである。
もちろん、許虔としても今の緊迫した状況は理解している。それこそ段珪が南下してきたときに、真っ先に攻撃を受けるのはこの顕広なのである。
なんとしても北伐軍には勝ってもらわなければならない。ある意味では、段珪の南下を恐れる点では回光以上とも言えた。
彼は以前にも、この顕広で大軍に囲まれたことがあった。
瑛が賢から王位を纂奪した時のことである。
時の関北郡の太守だった房蘭宝は、法氏の王朝を認めず、反旗を翻した。
当時、幾つかの郡の太守が彼に呼応して反旗を翻したが、彼らは房蘭宝に比べると消極的であり、言わば日和見だった。瑛の朝廷ではこの動向を素早くつかみ、討伐の焦点を関北郡に合わせた。
このころ、まだ丁義堅は騎都尉として都とその周辺の治安維持を担当しており、関北郡には法関兼の弟で、いまは程王となっている法九思が軍を率いて向かった。
しかし、法九思は房蘭宝の立て篭もる顕広を落とす事ができず、他の日和見太守を勢いづかせてしまう結果となったのである。
そこで法関兼は急遽、丁義堅を将軍として任命し、各地の反乱に当たらせたのであった。
丁義堅は二ヶ月足らずの間に他の反乱太守を鎮圧してしまったが、結局、法九思は関北郡を鎮圧できないまま丁義堅と交代することになる。
房蘭宝は法九思相手に三ヶ月の間守り切ったことに自信を持ち、丁義堅が来ても強硬な態度を変えなかった。
しかし、当時房蘭宝の幕僚の一人だった許虔は、丁義堅が法九思とは違うことを知り、これ以上抵抗することの無意味さを房蘭宝に説いたのである。
事実、三ヶ月におよぶ篭城のために、既に城内の兵糧は残り少なくなっており、兵も戦に厭きていた。
しかし房蘭宝は許虔のこの諌言に耳を貸そうとせず、かえって彼が丁義堅と内通しているものと考えて牢に閉じ込めたのである。
それでも房蘭宝もこれ以上篭城は出来ないことは承知していた。彼は兵糧問題を解決し、さらに再び他の郡が応じられるよう、瑛軍を撃退してその兵糧を奪うことを考えた。
普通ならこうした作戦は、誰かが諌めて辞めさせるべきであったが、許虔が投獄された直後だったため、あえて誰も止めようとはしなかった。
房蘭宝は特に戦下手ではなかった。段珪が国境を脅かす関北郡の太守に任ぜられている事からもそれは分かるし、法九思を散々苦しめた手腕からもそのことを否定はできないだろう。しかし、今回は相手が悪過ぎたと言える。しかも彼はあえて城を出て、丁義堅に野戦を挑んだのであった。
結果は房蘭宝の大敗北だった。
彼は呆然としながら城へと逃げ込んだが、城内ではすでに許虔が牢から出され、瑛に下る事が決定していた。房蘭宝は城内で捕らえられて家族と共に首をはねられたのである。
顕広に入城した丁義堅は、その場で許虔を関北郡の太守とした。そしてそれは朝廷でも認められて現在に至っているという訳である。
このときの篭城の記憶は、顕広の住民にとってまだ生々しいものだった。しかも、今度囲まれるとするなら相手は段珪である。法九思とはそれこそ役者が違う。それだけは避けたい、と許虔が考えるのも道理であろう。
しかし、彼がそうした心配を表に出すなら、人々を不安にさせるだけである。このため、逆にそうした話題を明るく話すことで現実味を薄めているのであった。
「まあ、回光殿、そう心配することはないですよ。急いで北伐軍と合流したいのは分かりますが、ここまでほとんど休まずに来ているのでしょう。少しは休んでおかないと体が持ちませんよ」
「しかし、敵はこちらの事情を考えてはくれませんからね。今ごろ段珪と戦闘状態に入っているかも知れませんよ。ところで、この城の今の兵力はどの程度なのですか」
「常備軍百名の内、八十名は北伐軍と共に出陣しています。残り二十名を中核とする、臨時募兵した二千人が全兵力です」
「それでは少ないのではありませんか」
「いやあ、こんなものでしょう。募兵して六千人集めたうち、四千人を北伐に送っていますからね。この町の人口は約五万人です。これ以上募兵したら人がいなくなってしまいますよ」
そんな話をしていると急に廊下のほうで慌ただしい足音が聞こえ、召使の一人が部屋に入ってきた。
「太守、大変です。北伐軍の主力が段珪軍に敗北を喫したとの情報が入りました」
悲しいかな、回光の予感は最悪の仕方で的中したのだった。
「おぬし、意外と頭が悪いな」
興魏は白貂娘の話を聞き終わると一言そう言った。
「どういう意味です」
さすがの白貂娘もこの興魏の言葉にむっとした。
「そういう意味じゃよ。おぬしはいわばこの世におってはならん人物じゃ。それなのに、のこのこと出て来たのは頭の悪い証拠じゃ。第一、おぬしは自分の正体を明かすつもりかね」
「いえ、一生、王礼里として生きるつもりです」
「そこじゃよ。正体を明かす気がないのなら、最初から出てこなければいいのじゃ」
そういわれると白貂娘も返す言葉がない。
そして興魏はさらに続けた。
「のこのこ出て来てなんの野心もありませんと言っても、誰も信用はせんよ」
「しかし、私は……」
「本当に野心がなくたって、周りは信用せんと言うことじゃ。おぬしの存在そのものが邪魔なのじゃからな」
「しかし……」
「ただでさえ、おぬしは注目されておる。しかも、おぬしの存在は日に日に大きくなっておる。今回の北伐で戦功を立てれば、さらに目立つじゃろう。そうなれば、おぬしの好むと好まざるとに係わりなく、権力闘争に巻きこまれて、結局はおぬしの恩人にも迷惑をかけることになるじゃろう」
「では、私はあの時に死んだほうが良かったというのですか」
「そこまではいっとらん。じゃが、この国には戻らなかったほうが良かったと言うことじゃ。遠くに行けば誰もおぬしの正体など気にせん。段珪の民となるのがいやなら、もっと西の方に行けば、この国に負けんくらい豊かな国もあるそうじゃしな」
「遠くに……」
「戦の前におぬしを混乱させたかもしれんが、この国にいる限りは自分に降り掛かる災難を覚悟しておくことじゃ。とりあえず、おぬしの正体については、儂の口からは誰にもしゃべらんから安心せい」
「ありがとうございます」
白貂娘は興魏に礼を言った。
興魏に言われた言葉は白貂娘の胸に刺さった。なぜなら最初は彼女自身も、この国に戻るつもりはなかったからである。
しかし三年間一人暮らしをした結果、彼女は自分が思っていたよりも弱いことを知った。孤独さが彼女の心を揺れ動かした。
段珪の民に溶け込もうかとも考えたが、瑛と争うことになるのは目に見えている。
そんなときに、高寿蘭の一行が彼女の家の近くを通ったのである。彼女は懐かしい顔を見て、望郷の思いが止められなかった。結局、彼らを助けてそのまま瑛に行ったのだった。
しかし、彼女はこのとき、今度の戦で生きて帰ることができたなら、職を辞して今度は遠くへ旅に出ようと決意した。
そんなことを考えていると、扉を叩く音がした。興魏が返事をすると、回光と許虔が中へ入ってきた。
「王殿、たった今、我が軍の主力部隊が段珪に破れて灰山という山で囲まれている、という情報が入った。直ぐ出発して彼らを助けなければならない」
「しかし、瑛の主力は十万、敵は七万というではありませんか。囲むと言っても逃げ道は開けているのではありませんか」
「それが、敵はさらに増援して我が軍の二倍の兵力になっているそうです。しかも灰山の谷間に追い込まれたので、入り口を塞がれてはどうしようもありません」
「二十万ですか。その兵力では確かに辛いですね。分かりました。直ぐ準備します」
白貂娘はそういうと再び興魏に一礼して回光と共に部屋から出た。




