第八章 白貂娘、関北郡へ向かい興魏と対話す 2
その彼女も翌日には北伐軍の宿営地へ向けて回光と共に馬を走らせていた。正確に言うなら、まず丁義堅が病の床に伏せっている、関北郡の顕広へと向かっていた。二人とも馬を急ぎに急がせて、四日目には既に関北郡に入っていた。
白貂娘と馬を並べて走る回光は、彼女の乗る馬の速さと丈夫さに舌を巻いていた。回光はすでに三頭の馬を乗り潰していたが、白貂娘は都を出てから一度も馬を変えていなかった。しかも、回光の馬が全力で走っているその後ろを、軽々とついてくるのである。
五日目の夕方、二人は顕広に入城した。顕広は前線に最も近い城郭都市であり、関北郡の郡都でもある。この町に兵糧や軍事物資が集められては前線に送られており、城内は大勢の人で賑わっていた。
「関北太守の許虔殿はまだ役所にいるはずだ。丁将軍は許虔殿の屋敷にいるはずだから、まず許虔殿に挨拶に行こう。役所に行けば前線の様子も分かるだろうしな」
回光は白貂娘にそう言った。
「しかし、その馬は本当に凄い馬だな。足の速さも去ることながら、体力もずば抜けている。私の馬はもう駄目なのに、そっちは五日間走り続けてまだ走り足りないような顔をしているじゃないか」
回光は初対面以来、どうもこの白貂娘と呼ばれている、王礼里が苦手であった。なにしろ最初の出会いが出会いである。自分の能力を鼻にかけた才女、という印象が強く、これまでもできるだけ避けて来たのであった。
しかし、この五日間でその印象は薄れていた。思ったよりも謙虚な女性である。
「私は軽いので、疲れがたまらないのですよ。それに、昔からこの子は走るのが好きでしたから、久しぶりに思い切り走ることができて、嬉しいのでしょう」
そんな会話を交わしつつ、二人は役所へと向かった。
門番は回光を見るとすぐ許虔へ取り次ぎを走らせ、二人は別室に案内された。暫く待つと、許虔は太った体を揺らしながら部屋へとやってきた。
「許太守、こちらは今度、北伐軍の総大将付参謀に任ぜられた王礼里殿です」
回光は許虔との挨拶を交わすと王礼里をそう紹介した。
「王礼里です。よろしくお願いします」
「ああ、あなたの噂は聞いております。奉の白貂娘と言えば有名ですからね。なんでも太子の教育係になったとの事ですが、やはり北伐に駆り出されましたか」
「まるで知っていたような言い方ですね」
回光は許虔の言葉を訝しんだ。
「いやあ、知りませんでしたよ。ただ、段珪について都で一番詳しいのは白貂娘殿でしょうからね。使わないという手はないでしょう。第一、段珪を相手にするのに王将軍や宋将軍では申し訳ないが力不足ですよ」
許虔のその言葉に白貂娘は疑問を差し挟んだ
「しかし、王将軍も宋将軍も名将と言われているではありませんか。役不足ということはないでしょう」
「確かに兵を率いて戦えば強いでしょう。しかし王将軍は生来の頑固さから、作戦の柔軟性に欠けますし、宋将軍は人付き合いが悪く、人望が無さ過ぎます。まあ、どちらか一人だけで戦うならまだ勝ち目があるかも知れませんが、二人一緒では戦う前から負けは決まったようなものです」
「許太守、言い過ぎではありませんか」
回光は許虔に注意した。
「おっとこれは失礼。彼らが負ければここも戦場になるわけですからね」
許虔は全く緊張感のない声でそう言うと、大きな声で笑い出した。
回光は彼のそうした態度を不真面目だと感じて不機嫌な顔になった。
一方の白貂娘は呆気にとられたが、すぐに幾つかの質問を彼に投げ掛けた。
「現在の前線の様子はどうなのですか」
「今のところは睨み合いが続いているようですよ。どちらも動いていない。我が軍の方は、慎重派の王将軍と積極派の宋将軍の意見が合わないので動けないだけですがね。問題は段珪が何故動かないかです。彼らが長期戦を望んでいるのであれば分かりますが、彼らだって後方の憂いが残っていますからね。そうゆっくりしてはいられないはずなのですが」
「そうですか。こちらの兵糧はどのくらい残っているのですか」
白貂娘にそう聞かれると、許虔は急に声を潜ませた。
「ここだけの話ですが、本陣にあるのは約二週間分だけです。今、早急に集めさせていていますが、この城にある分も合わせても、ひと月も持たないでしょう。南の地方からの兵糧が届くまでぎりぎり持つかどうかですね。ただ、今年は冬がくるのが早そうなので、兵糧の輸送に手間取る可能性があります。そうなれば、哀れ我が軍は飢えと寒さで全滅、となります」
「ではやはり、このひと月の内に決着をつける必要がある、というわけですね」
「勝つつもりならそういうことです。まあ、ここで話していても始まりません。とりあえず、私の屋敷へ来てください。丁将軍の意識はもう戻っています。まだ体は動かせないようですがね。興先生に言わせると完全に回復するには、半年はかかるそうです。戦は無理ですが、二人の顔を見れば喜ばれることでしょう」
そういうと、許虔は人を呼んで二人を屋敷まで案内するように言い付けた。
「私は、体が、丈夫なだけが、取り柄だと、思っていたから、まさか、こんな、大事なときに、倒れるとは、思っても、見なかったよ」
丁義堅は寝台に横になったまま、そう苦しそうに二人に話しかけた。
「礼里、君を、戦争に、行かせたく、なかった。君の、苦しみの、原因は、私が、作ったから、その、償いを、したかった。だが、この、ていたらくだ。皇帝にも、申し訳ない。兵達にも、申し訳ない。そして、君にも申し訳ない」
「そんなことはありません。どうか、お体に触りますから、気を落とさないでください」
白貂娘はそう言った。彼女にとって丁義堅は命の恩人であった。養子の話は断ったが、それは彼女の個人的な事情であり、彼に感謝こそすれ憎んだことは一度もなかった。
「さあ、これ以上はだめじゃ。病人が疲れるからな」
医者の興魏はそう言って患者を休ませるために、回光と白貂娘の二人を部屋から追い出した。興魏は部屋から出ると、白貂娘の方をまじまじと見た。
「……私がどうかしましたか」
「なんじゃ、最近の若いもんは礼儀も知らん。傷を治してやったのに感謝もせん」
興魏にそう言われて、白貂娘はやっと気が付いた。
「あ、私の傷を治療したのは興先生だったのですか」
「そうじゃ」
興魏はにこりともせず是正した。自分から感謝を求める当たり、かなりの偏屈者のようである。彼女はすぐに自分の非礼を詫び、改めて興魏に感謝した。
「あのときは私も取り乱していて、お礼が言えませんでした。誰が自分を治療したかも分からなかったものですから、お礼が遅れて申し訳ありませんでした」
「ふん、まあいいわい。傷の様子を見てやるから、ちょっとこっちへこい」
そう言うと、興魏は先に歩き出した。白貂娘は一瞬ためらい、回光のほうを向いた。回光は行っていもいい、という素振りを見せて、自分は許虔の待っている部屋へと向かってしまった。
白貂娘はそれを確認してから興魏の後を追った。
興魏は丁義堅の治療をするために、許虔の屋敷に一室を借りていたが、彼はその部屋を診療室のようにしてしまい、許虔に無断でその部屋で町の人の診察まで始めてしまった。
許虔もあまり物事に拘泥しない性格だったため、それをそのまま黙認していた。
興魏はその部屋で白貂娘の傷を一通り診察した。
「まあ、化膿したり悪化しているところはないようじゃ。だが、これ以上傷跡が消えることもないじゃろう」
「覚悟はしておりました」
白貂娘がそう返事をすると、興魏は彼女の方に顔を近づけ、声を潜めていった。
「ところでおぬし、何を企んでおるのじゃ」
「えっ、何のことですか」
「儂がおぬしを診察するのは今日が三回目じゃ。二度目は三年前のこの傷を治したとき、そして最初にみたのは、おぬしがまだ三歳の頃じゃ。白貂娘とは誰が言ったか知らぬが、上手く名付けたものじゃな。おぬしはお転婆でいつもいたずらばかりしておった。ある日とうとう木登りに失敗して足に大怪我を負い、両親が慌てて儂のところに担ぎ込んできたことがあった。その時の傷跡と、その子の足にあった黒子がおぬしの足にあるから間違いない」
白貂娘はその興魏の言葉に激しく動揺した。
「どうか……どうかそのことは誰にも言わないでください」
「それは儂が決めることじゃ。言って欲しくないなら、おぬしの秘密を儂に言ってみい。もし言う必要がないと儂が思えば誰にも言わん。じゃがおぬしが言わないなら、儂も一応軍に身を置く者じゃから、しかるべきものに言わねばならん」
白貂娘は興魏の顔を見た。興魏も白貂娘の目を見た。しばらくして彼女は決心した。
「分かりました。あなたにだけ全てをお話します」




