第八章 白貂娘、関北郡へ向かい興魏と対話す 1
「父上、なぜ王次傅を解任するのです」
太子の喜香は、白貂娘が次傅を辞めるという話を素早く聞き付けていた。
丁義堅の病気については都では緘口令が敷かれており、一部の重臣を除いて知るものはいない。このため、彼女が戦場に向かう準備も秘密裏に行われ、表向きは次傅を解任されたことになっていたのである。
皇帝法安才は、喜香太子が自分からやって来た事に少なからず驚いた。
「いや、解任といっても一時的なものだ。暫くは都を離れて休んで貰うことにした。帰ってきたら、また新しい仕事をしてもらうつもりだ」
思っていた以上に彼女に懐いていたことに多少の驚きを覚えつつ、そう無難に返事をしたが、喜香の顔は晴れなかった。
「もしかして、私のせいですか」
「何のことだ」
「私が北伐軍の見送りに行かなかったので、その責任を王次傅に取らせたのですか」
「ああ、あの時のことか」
「あの時は、私が我が侭を言っただけで、王次傅には責任はありません」
「いや、あの時のことと今度のことは関係ない」
そう言いながら、法安才は父親の顔で苦笑した。
白貂娘を次傅の位に就けたのは、太子の消極的な性格を変えることができないかと考えてのことだった。
結局、あまり効果はなかったかと思っていたが、辞めさせた途端に抗議しに来る所をみると、少しは効果があったようである。
「では、また次傅に復職させてください」
「おまえ、そんなに礼里が気に入ったのか」
そう聞くと、喜香は急に戸惑った顔になった。
「い、いえ。ただ、次傅が近くにいると安心できるのです」
そこでしばし法安才は考えた。
このまま太子に事実を教えない事もできる。しかし、それでは自分が太子である息子を信用していない事にならないか。むしろ、太子にも国の機密を教える方が、自尊心を持たせる事ができるのではないか。
彼は思い切って、息子に事実を伝える事にした。
「喜香、これから言う事には緘口令が敷かれている。心して聞くのだぞ」
突然、父親が真面目な顔で話しはじめたため、法喜香も緊張した。
「実は、王礼里は急遽、北伐に参加する事になったのだ。丁義堅が病気で倒れたため、その代わりだ。帰って来たなら、また次傅に戻る。だから、それまで辛抱するのだ」
太子はそれを聞いて驚いた。それは、白貂娘が北伐に参加した事よりも、皇帝が国家機密とも言える事を話してくれたからである。いままで、そうした政治的な話を聞く事もなかったのである。
「これを教えるのは、お前もそろそろ少しずつ大人に近づいているからだ。大きくなるなら、こうした秘密にしなければならない事が増えて来る。お前もその準備をしなければならん。全てを教える事はできないが、これからもお前の関係する事は、できるだけ教える事にしよう」
法喜香はそう言われると、非常に嬉しそうな顔をした。彼は、自分が父親からやっと一人前に見られたと感じたのである。
「判りました。では、私から次傅に、北伐に行く前に贈り物をしたいと思います。よろしいですか」
「いいだろう。今日の夜には出発するから、急いだ方がよい。だが、目立たぬようにな」
そう言って、法安才は太子を下がらせた。
元々、瑛では降伏した人物はできるだけ登用する政策をとっている。
そしてそのほとんどの場合は、以前就いていた職と同じか、またはそれに近い職が与えられていた。このため白貂娘が奉で武官として仕えていたのに、瑛で文官として仕えるようになったのは数少ない例外だった。
この例外には幾つかの理由があったが、その中でも最も大きな理由は、大将軍であり白貂娘の保護者でもあった丁義堅が彼女を武官にすることを嫌ったからである。
ごく若いときから戦場で戦い続け、最後には無残な刑を受けた彼女を、再び戦場に戻すのは忍びない、というのがその理由だった。
しかし、皇帝の法安才には白貂娘を戦で使ってみたい、という願望があった。彼女は丁義堅をただ一人、破ったことのある人物である。その才能を使わずに埋もれさせるのは勿体ない、と考えるのは彼だけではないだろう。
このため、今回の丁義堅の病気はその欲求を叶える絶好の機会だった。もちろん彼女の登用を危ぶむ声もあったが、法安才は強引に押し通したのである。
白貂娘自身もこの話を聞いて驚いた。自分が北伐に参加することもさることながら、丁義堅が倒れたという話に衝撃を受けたのである。
最後にみたのは出陣の前日であったが、その時は特にいつもと代わりはなかった。彼の元気な姿しか見ていないため、彼が病気になったという事が信じられなかった。
ただ、北伐への参加は突然のことだったため驚きはしたが、そのことへの不安は不思議となかった。
このまま再び戦場を彷徨することになるのだろうか、などと考えているうちに、ふと自分が北伐で負けることを考えていないことに気付き、自分も意外とふてぶてしいと思って一人で苦笑しながら、しまい込んでいた自分の長剣を取り出した。
その昔、自分に剣を教えてくれた人物から譲り受けた剣であり、長い間、愛用していた剣でもあった。
段珪の地に独りで暮らしていた時は、ある時はこれで剣の腕を磨き、別の時は胡弓を引くことで気を紛らわせていたのである。
しかし、陽安に来て次傅の位に就いてからは、剣の腕を磨く必要もなくなり、かといって自分の師ともいえる人の形見であり処分することもためらわれたため、結局しまい込んだままになっていた。
実のところ、再びこの剣を取る時が来るとは思ってもいなかった、というのが心境である。
白貂娘が出発の準備をしていると、甜憲紅が慌てた様子で入って来た。
「あ、あの、太子様がお屋敷にいらっしゃいました。劉さんが、直ぐに白貂娘様を呼んで来るようにと」
「太子が。判りました。直ぐに参ります」
なぜ今ごろ、太子が屋敷に来たのか訝りながら、彼女は客間へと向かった。廊下では劉沢が彼女が来るのを待っていた。
「太子はこちらでお待ちです。どうも、お忍びでこられたようでございます」
「そうですか。わかりました、ありがとうございます。下がっていてください」
白貂娘はそう言うと、扉を叩いて中に入った。
「太子、どうされましたか」
「うん。陛下から話を聞いた。それで、私から礼里に贈り物をしようと思ったのだ」
「太子から、ですか」
「そうだ。正確には、礼里に返すのだ。黄藍重来、あの馬に乗っていって欲しい。私が持っているよりも、きっと役立つ」
白貂娘はそう言われると、太子の親切に思わず涙が出てきた。
「どうした、なぜ泣く」
太子は、白貂娘の思わぬ反応にそう尋ねた。
「太子の心配りを嬉しく思ったのです。ありがとうございます。大事にお乗りいたします」




