第五章 太子法喜香、白貂娘に師事する 3
「白貂娘はなかなか手強い。こちらの嫌みが通じない」
「あの娘のせいで、私も恥じをかかされた。その上、馬を贈ったり、お世辞を言ったりと太子に取り入ろうと必死のようだ」
陰支訓と楊猛が口々にそう言うと、離封元は笑っていった。
「なるほど、お二人にそこまで言わせるとは、なかなか侮れないようですね。それで、太子の方はどうですか」
「太子もあの娘が気に入っているようだ」
楊猛は、今日の帰りの道で太子が口にした言葉を思い浮かべながら、そう答えた。
「そうですか。明日は私の講義ですが、ではその時に私から太子に、白貂の危険をお教えする事としましょう。太子も、白貂が不吉だと知るならあの娘を近づけるのを嫌がるでしょうから」
離封元はそう言うと、再び低く笑った。
「今日は、青白時代の故事についてお教えいたします。太子は、その時代の輪という国と項という国をご存知ですか」
離封元は博覧強記で知られた人物である。彼の受け持ちは太子に様々な学問を教える事であり、それには歴史や法律が含まれる。
その彼が言った青白時代とは、この時代から約千年以上前の、諸侯が乱立していた時代の事であり、この国の基本的な文化や思想が作られた時代でもあった。
「いいや。知らない」
「さようですか。これからお話しする故事には、輪と項、そして允という三つの国が登場します。この三つの国は並んで位置しておりまして、今で言いますと、そう、丁度、陽河をここからもう少し降った辺りにあった国です」
そういうと、彼はその故事を話しはじめた。
輪の霊公は白貂の毛皮で作った、十畳はあろうかという立派な敷物を持っていた。
輪のとなりに位置していた大国の項では、恵公の寵妃である青音という女性がその噂を聞き、輪の霊公にそれを譲ってもらうよう、恵公にねだった。
恵公としては愛する青音の願いとあらば断る訳にはいかない。彼は直ぐに輪に使いを送り、最初は三つの村邑、次に三つの県、続いて三つの城と交換して欲しいと頼んだ。
しかし輪の霊公は首を縦に振らなかった。霊公は、もう少し値をつり上げてやろうと考えたのである。
しかしその目論見は空しく潰え去った。項の恵公は輪の態度に怒り、自国の全兵力をもって輪を蹂躪したのである。
結局、霊公は捕らえられ、白貂の絨毯も項軍の手に渡る事になった。
さらにこの話には続きがある。項は隣国の允と敵対関係にあった。
しかし、恵公は輪に全兵力をつぎ込んでしまっていた。このため項は一時的に無防備となり、允の穣公はその隙を逃さなかった。
彼はすかさず項の都に攻め込み、恵公の寵妃青音と太子を捕らえてしまった。
恵公は慌てて軍を引き返させたが、待ち伏せしていた允軍に打ち破られ、恵公も命を落とすこととなった。
こうして白貂の絨毯をめぐる争いの中で、輪と項という二つの国が滅びる結果となったのである。
そして白貂の絨毯はこの後、穣公の手に渡ったが、彼はこれを不祥であるとし、皆の目の前で燃やしてしまった。
これが、白貂にまつわる故事であった。
「この時以後、白貂は国を滅ぼす不吉な動物と言われております。ですから、そのような動物にまつわるものは、近づけてはならないのです」
離封元はそう最後に言った。
その間、彼は白貂娘の方を一度も見なかったが、彼女に対するあてつけである事は明らかであった。
白貂娘はしかし一言も発しなかった。
太子は彼女の方をちらりとみると、離封元に質問した。
「その故事が、白貂は不吉だといわれている由来なのか」
「さようでございます」
「なぜ、項の恵公は白貂の絨毯を欲したのだ」
「先ほども申しましたように、自分の寵妃にねだられたからでございます」
「ではなぜ輪の霊公は、白貂の絨毯を譲らなかったのだ」
「それは、霊公が貪欲だったからでございます」
「そうか。では問題は恵公の好色と、霊公の貪欲ではないのか」
そう言われると離封元は返答に詰まった。
「し、しかしです。それを引き起こしたのは白貂の絨毯であり」
「つまり、白貂の絨毯でなければ項の寵妃も欲しがらなかったし、霊公も手放すのを惜しみはしなかったという訳だな」
「さ、さようでございます」
本当はそう極論されてしまうと、そうであるとは離封元も言い難かった。しかし、成り行き上、そう言わざるを得ない。
離封元はこれ以上、追及されるのを恐れ、講義をそこで中断して退室してしまった。
後には太子と白貂娘だけが残った。
「どうやら次傅は嫌われておるらしいな」
「私は新参者ですから、試されたのでしょう」
白貂娘は、嫌がらせを受けているのに気付いてはいたが、太子にはそう答えた。
「離少傅は次傅に嫌みを言っておった。そして、私には次傅を近づけるなと暗に申しておった」
「考えすぎでございます」
「いや、そちも、気付いているはずだ。礼里」
太子はそう、彼女を名前で呼んだ。
「礼里は私を昨日も一昨日も助けてくれた。だから、今日は私が礼里を庇ったのだ。そちと私は似ている。私も少傅たちからは好かれておらん」
「そんなことは」
「そうなのだ。少傅たちは私に教える事を厄介事と考えておる」
実を言えば白貂娘もその事には気付いていた。少なくとも、彼らの教え方に熱意は感じられなかった。
「礼里、そちとは仲良くできそうだ。これからもよろしく頼む」
太子はそう言うと、白貂娘に向かって微笑んだ。それは太子が彼女に見せた、最初の笑顔でもあった。




