第五章 太子法喜香、白貂娘に師事する 2
翌日、今日は楊猛が武芸、及び兵法を教える日であった。彼は、高齢ながら武芸百般に通じ、青白時代の忠丘建という人物の記した“忠子兵法”という書をそらんじているという古強者である。
賢の桓帝時代には、兵を率いて幾度も戦い、体には無数の傷痕があると言われている。
さすがに年には勝てず、軍から身を引いて久しかったが、今でも若い者には負けん、と豪語していた。
ちなみに彼女の従姉妹は桓帝の皇后であり、孫娘が現皇帝の後宮に入っている。
つまり彼も一応、外戚になる。ただし楊氏一族は回越によって有力者の多くが殺されていたため、瑛の朝廷内ではさほどの影響力は持っていない。
それはさておき、楊猛は白貂娘など何者ぞ、と思っている。
若い者は少し活躍するとすぐに増長する、少し灸を据えてやらないと、太子にも悪い影響を与えるだろう、そのように考えたのである。
その日は狩りをする日であった。
白貂娘は自分の馬である黄藍重来を連れて来たが、都の人々が、見たことがないと驚いたほどの名馬である。城内の厩舎にも、その馬に匹敵するだけの馬は見当たらなかった。
太子よりも立派な馬に乗るのは気が引ける。そこで、黄藍重来は厩舎に残し、別の馬に乗ろうかと彼女は考えた。その時、後ろから声を掛けられた。
「何をしておられるのかな」
振り向くと、そこに太子と楊猛が立っていた。
「はい。私の乗る馬を探していました」
「次傅はご自分の立派な馬を持っておられるではないか。選ぶ事もなかろう」
「どうも、この馬は私には不相応のようです。よろしければ太子がお乗りになりませんか」
「いいのか。一度、そのような馬に乗ってみたかったのだ」
楊猛が止める前に、太子はそう言った。その一言で、黄藍重来は太子のものとなったのである。
狩りといってもこの場合は遊戯や競技として行うものではなく、まして生活のための糧を得るためのものでもない。
今日太子の行う狩りは、太子に馬の扱い方、弓の扱い方などを教えるための講義の一環である。
それでも太子は、窮屈な城内から郊外に出る事のできる今回の狩りを楽しみにしていた。しかも今日は、自分がこれまで見たこともないような立派な馬に乗る事ができている。
「どうだ。私の手綱さばきは」
太子はそう聞いた。こうして見るとなかなか堂々としている。
「お上手でございます」
白貂娘は思ったとおりそう答えたが、何事にも厳しい楊猛には、彼女が太子にお追従を言っているように聞こえた。
「次傅、太子を教えるのは私の仕事です。勝手な口出しはしないで頂きたい」
そう言われては、白貂娘も口を噤まざるをえない。
狩り場に着くと、楊猛は馬に乗ったまま、太子に狩りについての講義を始めた。
「王者たる者の行う狩りは、古来よりその国の力と密接な繋がりがございます。例えば、自国の軍事力を誇示するために大規模な巻き狩りをした王もおりましたし、また、狩りの振りをして軍を動かし、敵国に攻め込んだ王もおります。逆に、狩りのために兵を動かした王が、隣国に攻め込むと勘違いされ、その国から攻め込まれた、という事もございます。ですから太子にも、狩りの仕方を覚えて頂かなければなりません」
「そうか。しかし私は止まっている的を射た事はあるが、動く獲物を射た経験はないぞ」
「ですから今日はその練習をして頂きます。勢子が林の奥から獲物を追い出してまいります。飛び出して来たところを射るのです」
そういうと、彼はまず自分が手本を見せる、と言った。
林の奥で大きな音が聞こえて来る。すると、数匹の小動物が飛び出して来た。
楊猛はそれを見ると、素早く弓に矢をつがえ、目の前に飛び出した兎めがけて矢を放った。矢は狙い違わず、兎を射抜く。
「さすがだな、楊少傅」
「恐れ入ります。さ、次は太子の番です」
楊猛はそう言うと、太子は逃げてゆく一匹の兎に狙いを定めた。しかし、放たれた矢は兎にはかすりもせず、地面に突き刺さった。
「いけませんな。もっとよく狙いを定めて」
再び飛び出して来た兎に対し、太子は再び矢を放ったが、やはり兎には当たらず、木の根本に当たった。
「陛下は、太子ぐらいの頃から狩りを楽しんでいましたぞ」
「太子、的は動いております。動きを見て、少し先を狙うのです」
白貂娘は見かねてそう助言した。彼女の見るところ、太子の腕はなかなかである。ただ、止まった的しか射た事がないので、矢は動く兎の後ろを飛んでいっていた。
「次傅、余計な口出しはしないで頂きたいとさっきも行ったはずだ」
楊猛は振り向いて、再び白貂娘に注意した。
「当たった」
太子の言葉に驚いて楊猛が振り向くと、そこに一匹の兎が後ろ足を地面に串刺しにされていた。
結局、その日の太子の獲物はその一匹だけであった。しかし太子は初めての狩りで獲物を得た事に満足していた。
「次傅のお陰だ。今日は一匹だけであったが、次はもっと獲るぞ」
太子がそう言うと、楊猛は複雑な顔でうなずいた。




