第四十一章 白貂娘、決断を鈍らせて呂厳を付けあがらせる 2
「どうした。自分の間違いを認めたのか」
呂厳は勝利者のように問い詰めた。
「援軍は必ずきます。絶対に勝てる見込みを捨てて、功のために危険な賭けに出ることはできません。篭城は国の方針でもあります。もしもこれ以上、このことで不満を言いふらすようであれば、仕方がありません。校尉を軍規に照らして処分しなければなりません。どうか私に最後の手段を取らせないようにしてください」
白貂娘は絞り出すような声でそう言った。しかし呂厳は鼻で笑っただけであった。
「俺を脅そうというのか。面白い。だが俺に手を出せば、それこそ王殿が俺に嫉妬したと言うだろう。そうなってはこの城で軍の指揮を取ることはできなくなるぞ」
呂厳は逆に脅しをかけると、彼女の元を立ち去った。彼女はその後姿を見て、ため息をついた。
すると、隣の部屋に待機していた磁渕と紀端が出てきた。磁渕はさもじれったそうに彼女に詰め寄った。
「なぜ決断しなかったのですか。彼の脅しに屈したのですか」
白貂娘は力なく答えた。
「彼の言うことにも一理あります。わたしが彼を捉えたなら、そのあとは力でこの城の兵を押さえなければなりません。私にはそうする自信がないのです」
「なにを気弱なことを。あなたは実績もあります。大司馬もあなたを支持するでしょう。彼を放っておくことの危険性は、あなたが一番ご存知ではありませんか。白貂娘ともあろうお方が、なにを恐れるのです」
磁渕はそう彼女を励ました。
しかし彼女は首を振った。
「もうすぐ陛下が援軍を率いてこられます。それまでの辛抱です。それまで持ち堪えることを考えましょう」
そう言い残すと、彼女も部屋を出ていった。
その夜のことである。
白貂娘は夢を見ていた。
それは彼女が時々見る夢であった。
そこにはまだ幼い自分がいた。もちろん、目も耳もすべてそろっている。ああ、私はここで何をしているのだろう。そうか。私は守らなければならないのだ。何を守るのだろう。そう、平碧を、砦を、そして秘密をである。
その時、目の前に大きな体の男が立ちはだかった。彼女はその姿を見て戦慄し、逃げようとした。しかし体が動かない。男は手に鞭を持っている。その男がまさにその鞭を振り下ろし、自分を打とうとした瞬間―。
彼女は寝台の上で飛び起きた。全身に汗を掻き、息も荒くなっていた。
彼女にとって、白廊関の悪夢はまだ生々しい記憶であった。人前ではそのような素振りこそ見せなかったが、それでもその時に受けた心の傷は、今でも完全には癒されてはいなかった。
彼女が起き上がるとすぐに隣の部屋へ通じている扉を叩く音がした。
「ご主人様、大丈夫ですか。今、叫び声が聞こえたように思いましたが」
甜憲紅が扉の向こうから声をかけてきた。
「大丈夫、すこし悪い夢を見ただけだから」
白貂娘が答えると、甜憲紅はそうですかとだけ言って部屋の中には入ってこなかった。
彼女自身はしばらくの間、寝台の上で上半身だけを起こしたまま、呆然としていた。
そのうちに、彼女の右目には涙があふれてきた。彼女は突っ伏して声を出さずに泣き出した。
自分の醜い顔のこと、そしてもう子供を産むことのできない体のこと、普段は考えないようにしているそれらのことも、悪夢で目がさめた時にはそうはいかなかった。嫌でも現実をつきつけられるのである。泣くなというほうが無理であった。
そして今、彼女は再びあの時と同じ立場に追い込まれていた。
彼女のそうした気持ちを鋭く察してくれていた陽長公主や喜香太子はこの城内にはもういない。
城内で彼女と親しい人物は、益兼と甜憲紅、それに磁渕ぐらいであった。
しかし、益兼は多忙な身であり、甜憲紅は彼女に尽くしてはくれるが、相談相手としては不向きである。磁渕は頭の回転は速いが、人の気持ちを汲み取ることがまだうまくない。
つまり彼女が自分の苦しみを打ち明けられる人は、彼女の周りにはいなかった。そう言う意味では彼女の周りは全て敵のようであり、針の筵の上に座っているかのようであった。
「私にはもう道化役は耐えられない。全てを投げ出して、逃げ出してしまいたい」
この時、彼女は本気でそう思っていた。
同時に、それが一時的なものであり、明日の朝にはまた元通りの自分に戻れることも知っていた。
しかし明日の朝まではまだ時間がある。それまでの間は、その思いを頭から振り払うことは難しかった。
しばらく声を殺して泣いた後、彼女はふと窓の外を見た。
何とはなしに月を探したが、その窓からは見えなかった。その時、もうすぐ新月であることを思い出した。
「月が出ないと暗いものね」
彼女は何気なくそう言った。
そして彼女は、自分の口にした言葉の重大さに気付いた。




