第三章 白貂娘、丁義堅に仕事を求める 3
丁義堅は王礼里の部屋を出ると、客間へと向かった。そこではすでに、一人の男がくつろいでいた。
「丞相、お待たせして申し訳ありませんでした」
相手の人物、瑛の丞相である白約楽は丁義堅の丁寧な挨拶に、軽く返事をした。
「来たばかりです。それより私こそ大将軍の家に押しかけて申し訳ありません」
「丞相がこの私に用事があるなど珍しいですね」
この二人は付き合いも長く、友人のように付き合っていた。
ただ丁義堅が下僕から身を起こしたのに対し、白約楽は商人の出であり幾ばくかの教養も備えていた。このため、丁義堅が彼に頼み事をする事は多かったが、白約楽の方から丁義堅に個人的に何かを頼む、ということは少なかった。
「ええ、少しお願いがありまして。ところで白貂娘は元気ですか」
「元気ですよ。彼女に用事があるのですか」
「間接的にはそうです。まだ決定はしていないのですが、白貂娘に太子のお相手をしてもらいたいのです」
「太子のお相手」
丁義堅は驚いた。確かに瑛では降伏した人物については寛大に扱い、大抵は何らかの職を用意する。しかし太子の相手となると話は別である。
「それは陛下もご存知なのですか」
「というより陛下のご意向です。ただ彼女を太子に近づけるとなれば、当然反対の声も上がるでしょう。陛下としては多少の反対は押し切るつもりのようですが、余り反対が多いようだと、さすがに気が引けるようです」
「なるほど、それで丞相はどう思っているのですか」
「私個人としては賛成です。彼女は以前、栄甘公主の侍女をしていましたし、頭も良い。ただ」
白約楽はそこで言葉を切った。丁義堅の様子を伺っている。
「ただ、なんです」
「策士としての私は、幾分別の気持ちがあります」
「複雑な言い方をしますね。どういう意味ですか」
焦らすような白約楽の言い方に、丁義堅は少々苛立った。
「白貂娘の正体の事です。彼女の過去について多少の疑問が残っています」
「どういう意味です」
「彼女が栄甘公主の侍女をする以前、何をしていたかという情報がほとんどありません。それなのに、彼女は字の読み書き、剣術、弓矢、胡弓となんでもそつなくこなします」
「それがどうしました。親に習ったのでしょう」
「そうです。彼女の親です」
丁義堅が何気なく言った言葉を、白約楽は繰り返した。
その言い方に丁義堅は、白約楽の言う多少の疑問の意味がやっと理解できた。
白約楽はさらに言葉を続けた。
「学問や武術、礼楽などを教える事のできる家庭に彼女はいた、という事ができます。しかも彼女は自分の親の事を覚えています。しかしその親の事について彼女はほとんど何も話しません。どうも彼女は何か大事な事を隠している、そう感じるのです」
そう言われて丁義堅も考え込んでしまった。
「では丞相は白貂娘が何かを企んでいる、そう言いたいのですか」
しかしその問いに彼は首を振った。
「もし彼女が自分の生い立ちに関して何かを企んでいるなら、奉の国で重用された段階で行動を起こした事でしょう」
そういうと彼はもう一度首を振った。
「どうも策士というのは疑心暗鬼になっていけませんね。彼女の過去については瑛に仕える上で問題になる点はないのです。強いて言うなら彼女が本当に復讐を抱いていないか、という事だけですね」
その事については丁義堅が保証した。
「彼女は復讐など抱いてはいません。もし復讐するなら太子にではなく、私にするでしょう」
「それは同感です。彼女の復讐する気はない、という言葉は私も信頼できると考えています」
「丁度、彼女もなにか仕事をしたいといっています。私は賛成です」
「では私と大将軍は賛成となりますね。三公の内、御史大夫は反対、大司農も渋い顔をするでしょうが、大司馬は私から根回しするなら賛成してくれるでしょう。三人賛成する者がいるなら皇帝も安心されましょう」
白約楽はそう言って安堵した。
「ところで、栄甘公主の話が出たついでに相談したい事があるのですが」
丁義堅はそう切り出した。
「将軍の相談を断る訳にはいきませんよ。なんですか」
「白貂娘が河園侯と栄甘公主に会いたいというのです。できれば叶えてやりたいのですが、なにか良い知恵はありませんか」
しかし白約楽はその相談に難しい顔をした。
「旧主にその旧臣が会う事は基本的に禁止されています。それでも河園侯については少し時間は置いたほうが良いでしょうが、皇帝から許可を頂く事ができれば二人以上の付き添いの上で会う事も可能でしょう。ただ当然ながら話す内容については気を付けてもらわないといけませんがね。それから栄甘公主ですか。あるいはこちらの方が難しいかもしれません。夫の景達殿は野心家であり策謀の士でもあります。彼は白貂娘が自分の妻と会うことの益と不利益を天秤にかけるでしょう。もしかしたら彼女に恩を売ることで彼女を利用しようとするかもしれません」
「景達殿が白貂娘を利用して、どんな益があるでしょうか」
「いえこれはあくまでも可能性の話です。ただし彼は煙のないところに煙を立てる男です。どんな些細な事でも弱みを見せるなら、彼はそれを最大限に活用しようとするでしょう。私だっていつ彼に足元をすくわれるか判ったもんじゃありませんよ」
さすがに白約楽のこの言葉は、丁義堅には大袈裟に思えた。
「まさか丞相が彼に足元をすくわれるなんて」
しかし白約楽は真面目な顔で答えた。
「こういう事は油断した方がやられるのです。まあ私はもう引退するつもりですから余り関係はありませんがね」
突然白約楽の口から『引退』の二文字が出たため丁義堅は驚いた。
「引退、それはまたなぜです」
「瑛の基礎は大体は固まりましたし、私はもう必要ないのですよ」
白約楽はそう理由を言ったが丁義堅は納得しなかった。
「この国はまだ安定していませんし、丞相もまだ三十三歳ではないですか。引退する年齢ではないでしょう」
「将軍、私は商人の出身です。父は常に品物の相場を見て、安く買い高く売りました。私は言わば法家に自分を投資したのです。これが大当たりで私はついに丞相にまでなりました。しかしこれ以上の投資は利益よりも危険の方が大きくなります。ですから私はこの相場から身を引くのです」
「丞相の言われる危険とは」
「人は誰でも多かれ少なかれ野心を持っています。ある人々は自分の目標を達成するならそれで満足しますが、多くの人々はさらに上を目指します。そうした人々にとって邪魔なのは自分より上にいる人です。私はまだ若く、しかもこの国で最高の地位にいます。つまりそうした強い野心を持つ人にとって、私は非常に邪魔な存在なのです」
それまで丁寧な言葉づかいをしていた白約楽は、ここで急に声を潜めた。
「義堅、戦争の時、敵方に邪魔な人物がいるならどうする」
「どうするって、そういう時は君に相談して策を持ってその相手がいなくなるように仕向けてきたじゃないか」
「そうだ。つまり私は彼らのそうした謀略の対象なんだよ。白貂娘のように引き摺り下ろされ、最悪の場合は命を落とす事になる」
白貂娘が例に出されると、丁義堅も言葉はなかった。確かに奉に彼女を疎ましく思う人物がいたために、彼らの策は予想以上の効果を得たのである。
「君だって例外ではないぞ。友人として忠告するが、自分の地位を保つ事は容易な事ではない。君も他人に引き摺り下ろされる前に、自分から引退した方が身のためだぞ」
白約楽はそう丁義堅に忠告した。
「私は……陛下を裏切る事はできない」
「裏切りではない。自分の身を不必要な危険から守るための知恵だ。それに別に逃げる訳じゃない。もし陛下が私を必要とするならすぐに私を呼び出すだろうし、その時は私も陛下のために働く」
しかし丁義堅は白約楽のように、割り切って考える事はできなかった。白約楽もそれ以上、彼に身の振り方を迫る事はしなかった。
結局は自分で決定しなければいけない事であり、彼は忠告したに過ぎないのである。
ただ丁義堅は白約楽の態度に多少の不信を持った。
「君は私に引退を勧めながら、一方では白貂娘に太子のお相手という仕事を持ってきた。彼女なら危険な目に遭っても良いというのか」
「それは違う。彼女が就くであろう仕事は言わば閑職だ。こう言っては何だが、今の太子に近づく事を栄達の手段と考える者は少ない。つまり他人の嫉妬をかうことはあまりないだろう。それに彼女の強い意志と忍耐力、類まれな寛容さが、どうしてもこの仕事には必要なんだよ。太子はあのとおりの御子だ。今でこそ陛下の跡継ぎとなっているが、あのままではその地位も危うい。運良く皇帝の座に就けたとしても、それは瑛にとって不幸な結果となるだろう」
「不幸な結果とは」
「今の太子にはやる気がない。やる気のない皇帝は人形のようなものだ。それを掴んだ者が自由に操り、政治を壟断してしまう。そうでなければ、慶王が玉座を奪うだろう」
ここでいう慶王とは皇帝の弟である法貴円の事である。白約楽はそれを危険な事のように言ったが、丁義堅にはその理由が分からなかった。
「慶王が皇帝になる事はそんなに悪い事か」
「彼は普段は巧妙に隠しているが、実は極端に保守的な男だ。彼が皇帝になるなら低い身分から取りたてられた者は皆、朝廷から締め出されてしまうだろう。賢時代の再来という訳だ。そうした事を避けるためにも白貂娘に太子を鍛え直してもらう必要があるという事だ」
「なるほど。約楽、君の言いたい事は大体わかった。しかし私はやはりまだ引退する訳にはいかない。それに段珪討伐も残っている」
それを聞くと白約楽は再び声を元の調子に戻し、丁寧な言葉使いを始めた。
「そう言うだろうと思っていました。さあこの話はこれで終わりとしましょう。そうだ、白貂娘にも太子のお相手の件、伝えておきましょうか」
「まだ正式なものではないのでしょう。役職も決まっていないのでは」
「そうですね。では正式な辞令が下るまでは秘密としておきましょう。しかし将軍、彼女を養子にできなくて残念でしたね」
「まあ彼女が断るのですから仕方がありません。何か理由があるのでしょう」
白約楽にとって、その白貂娘の理由というのがどうも引っ掛かっていた。
一方丁義堅は、これで白貂娘に仕事ができるなら甜憲紅も自分の仕事を彼女に取られる事もなくなるだろうと、そんなことをぼんやりと考えていた。




