消えゆく魂の先は
空に舞い上がる雲がたなびいているように見える。
私はその先を目で追って、こてんと首を傾げた。
これからどうしようか、どうするべきか、考えるが何も浮かばない。眺めてうっすらと浮かぶものといえばこれまでの日々だった。
私には彼女がいたから。何をするにも、いつも彼女が教えてくれたから、いつも私であれた。
「ねぇねぇ、見て―」
やんちゃな私はその頃、水遊びが好きだった。小さい頃は透き通ったガラス玉みたいな色に惹かれていた。
だからよく水をまき散らかしたり、それをかけ合ったりして遊んだ。
「やめなさい」
彼女はそう正しくいさめた。
「水は限りあるものよ。正しく使いなさい」
それから私は水と言う物体を貴重なものとして扱った。
水は飲み水として、そして植物の命を吹き込むものとして、どこにもまき散らさずに、まるでそれ一つしかない命の宝石ように取り扱った。
それから少しした時、彼女の判断が正しかったのだと、小学校の先生が世界の水不足問題を取り扱ったのを機に確信した。
彼女は幼い私に世界全体を考えて、水は大切にしなければならない資源の一つだと説いたのだった。
「あの人、ヤな人なんだ」
最初の正しさから随分と経ち、私も少しばかり大人になった。
すると自然に嫌な人が出て来た。
その人を裏で悪口を言い、その人を遠巻きにした。
私はそれが別に悪い事なんて思わなかったし、それが普通のことだと思っていた。
だって、その人がそうあるべきじゃないのに、そこに居ているのだもの。悪いのはあっちだもの、とそんな幼心で人を見下した。
「いけないことよ」
彼女は正しさを振りかざした。
「あなたは優しく、正しくありなさい」
それから私は彼女の言う通りにした。
悪口を言うのを止めて、心のうちに全部ためこんだ。
私は良い人であろうとした。そうすることで、私が清廉潔白であり続けたかった。彼女のように。
そして今度は裏で悪口を言うヤツを見下した。
そういう人はイケナイ人達であるとともに、かっこ悪く思えた。
どういったわけかそういった人たちには、そういう人が周囲にし群れた。
ぼんやりとそのグループを見ていると、そのグループ自体が汚いもののように見えた。
周囲から浮き出て、嫌われた。
良かった。私は嫌われることなく、これで生きていける。だから、もっともっと彼女の言うことを聞こう。彼女は正しいのだから。
「私は彼女の言うとおりに。期待通りに」
仰せのままに。
またある時、私が悲しそうにしていると、
「笑いなさい」と凛々しく喝を入れられた。
またある時は、私が笑っていると、
「こういう時は笑っちゃダメよ」と注意した。
彼女にとっての正しさは私の正しさだった。
だから、私は自分の感情をある程度コントロールして、彼女の言うとおりにした。
いけない事は彼女が決めた。良いことも、正しいことも、喜びも、私は彼女の言うとおりの場所で笑い、泣いた。
間違っているのは私でどれもこれも、彼女の言うとおりにしたら、とても心地が良かった。何も考えずに、その先を見据えられた。
「女の喜びは、子供を産むことよ」
彼女は具合の悪そうな顔色で、私に諭した。
ベッドで横になる彼女の姿を私は心配そうに見ていた。
彼女がどこか儚く、もうすぐ散ってしまいそうな桜のようで、どこかに希望を感じているのに、どこかでとても恐怖にかられた。
「だから、お願い」
彼女は私の手をしっかりと握り、目を見つめた。そして後生だからと、彼女は付けたし、そこで再び睡眠に戻った。
「早く生まなきゃ」
私は焦った。きちんと結婚して、きちんと彼女に私の子を見せなければならない。
それは確実なものごとで、私の幸せのためにでもあるのだ。
私は周囲の男を値踏みし、彼女に相談した。
この人はどうか、この人はどうか、と何度もかけ合って、この人なら、と彼女は頷いてくれた。
虱潰しに探してやっと見つけた相手は、どこにでもいる平凡そうな人だった。
少なくとも、私の感情で判断すれば、彼はそこまでタイプな人ではなかった。
しかし、彼女の言うことは正しかった。
その人は必ず私を大切にするだろうし、私を見捨てない。
社会的にも平凡で普通の幸せを与えてくれそうな人だった。そして、彼女に理解がある人だった。
しかし、彼女は私と彼との関係を了承していたのにも関わらず、急に気が変わったのか、彼とは別れろと命令するようにになった。
私の笑顔を見ていると苛つきを感じる頻度が高くなり、私にあたりがきつくなった。
「そんなに私の言うことが嫌なら、彼とは別れなさい」
彼女の口調は皮肉交じりだった。
わたしはイヤという素振りを見せたことがないのに、彼女にはそう見えたらしい。
ずっとずっと彼女に従ってきた。そうしなければ私の内側に何も残らない気がしていた。
私のお腹の中にはぽっかりと空いた空間があったがそこに子供はいなかった。
それが何よりも悲しくて、彼女の言うことに応えられない意味で、向き合えない理由だと言うことを彼女は知っていた。
知っていたからこそ、私にきつくあたったのかもしれない。
「ごめんさい」
いつしか心の底でたまっていた私の泣き声は、響いた。
こんなことしか言えなかった。謝罪で彼女のことを慰められなかった。
「出て行きなさい」
真っ白な空間から出て行くと、今度は彼女のために何をすればいいか考えた。
でも、私には、子供を作って彼女に見せることしか出来なかった。
すぐに彼と会い、私はこれからの計画を何度もたてた。そうしないと、イケナイ気がした。
あの時の後生だからといった彼女の皺だらけの手のぬくもりを手のひらにしっかりと握らせ、向き合えない彼女と手紙でやり取りをした。
向き合えないのなら、手紙なら。
そう考えて、いつも丁寧な言葉で、彼女を傷つけないように言葉を選んだ。その手紙はいつも返って来ることはなかったが、ときどき返信があった。
彼女の文字はしっかりとした圧で書かれた正しいものごとばかりだった。
「子供だけは……」
言葉の端々に彼女はそう書き、最後に後生だからと添えた。
美しくも流れる筆致に手を添え、私はお腹に手を当てた。
するとそこに命が芽生えたような気がした。
病院に行き何度も相談をしたが、無理だとはねかえされる。
しまいには、あなたはイケナイのだと呆れた文言を返された。
私はまだやれるのだ。私はあの人のために、彼女の正しさのためにあるのだ。
「お願いします」
涙ながらに私は叫んだ。
「私に子供を。子供がほしいんです」
その度に夫は私を連れ帰った。
優しく肩を抱かれ、お腹に手を当てる。
ここにはもう何もない空洞が存在するだけなのに。
夫は頭を抱えていた。
もうやめてくれ。やめてくれ。
何度も聞いた悲痛な涙を、私も感じた。
手元には彼女の手紙と虚しく転がったペン。
次の彼女への手紙の内容を考えていた。
夫の涙で濡れた手紙は手元にあり、私の嘘の文言を涙で滲ませた。
『大丈夫。ちゃんとお腹の…ちゃんはすくすく育ってるよ』
寂れた言葉と弱弱しい文字。
涙を添えて彼女へ送った。
どうして?
頭を捻らせて考えた文言も、今は全て無為に思えた。
背景には大きな入道雲が立ち上っている。
どことなく焦げ臭いサビた匂いは鼻につき、背景の積乱雲を遮る。
ここは終着駅。
私の人生はこれで終わり。
積乱雲の前のたなびいている灰はどこまでも広がり、徐々に空に昇っていく。
手を伸ばしても、もう私には届かない。私にどうあるべきか教えてはくれない。
ねぇ。お母さん。
私は次にどうすればいいの?