化粧
「これで完璧」
鏡に映った自分の顔を見て、私はそう呟く。今日も化粧はばっちりだ。
「いってきまーす!」
そう言って私は学校へ向かう。
教室のドアを開けると、目の前に一人の男の子が現れた。
「あ、美香。おはよ」
「健二くん。おはよう」
部活でこんがりと焼けた肌に、学校指定の白いシャツが映えている。全てはこの人のためだ。私は健二くんのために、毎日お化粧を頑張っている。
「今日は授業中寝ちゃだめだぞ」
なのに健二くんは、私のことに興味がないようだ。いつも通り、他愛もない会話を交わして、健二くんはどこかに去ってしまった。
私たちは高校三年生。健二くんは、スポーツ推薦で東京の大学に進学すると聞いた。私の進路は未確定。大学に行くほどの学力もないから、多分今年で健二くんとはお別れだ。
だから私は決めたのだ。今日の部活終わりに、健二くんに告白すると。
お化粧だって、いつも以上に頑張った。
六時間目、最後の授業が終わった。私は健二くんのもとへ向かった。
「あ、健二くん」
「どうした? 美香」
「今日ね、部活が終わったら屋上に…」
私が次の言葉を言おうとした瞬間だった。
「おーい美香ちゃーん」
「げっ…春野さん…」
同じクラスの春野すずめさんが声をかけてきた。いつものことだが、彼女のスタイルの良さには、つい女の私でも見とれてしまう。この人はクラスの中心的存在であり、私の恋敵。そう、春野さんも健二くんのことが好きなのだ。
「今日こそお前の化けの皮、剝がしてやる!」
そう言って彼女は、ポケットから水風船を取り出した。
さあ、逃げろ。
春野さんはいつもすっぴんだった。それなのに何であんなに顔が整っているのだろう。羨ましい。
ただ、性格は最悪だ。私が化粧をして学校に来るのが気に食わないらしく、水風船を私の顔面に当てて、化粧を落とそうとしてくるのだ。この水風船作戦は、不定期的に決行され、いつも私は戦々恐々としている。
そして今日、作戦が決行された。なんてタイミングが悪いんだ。今日は健二くんに思いを伝える日だというのに!!
私は逃げる。彼女の水風船が切れるまで、ただただ逃げるしか方法はない!!
私は廊下を全速力で駆け抜ける。
「待て美香ー!」
春野さんが私を追いかける。振り返ると、目の前に水風船が飛んできた。
「うわっ!」
私はそれを間一髪で回避する。反射神経には少しばかり自信がある。これで今まで春野さんが私に投げつけてきた水風船は95個目となった。
「ちっ!うっとうしいやつめ!」
「それはこっちのセリフよ!」
そう言いながら私は、一年五組の教室に逃げ込んだ。放課後の清掃をしている一年生の目線を一斉に感じる。
「ごめん一年生! ちょっと敵に追われてて…」
「美香ー! そこにいるのは知ってんだよ!」
そう言って春野さんも、この教室へと入ってきた。
「覚悟!」
私は三つの水風船を視界にとらえる。長年の戦いの中で、春野さんは三つ同時投げという必殺技を身に付けたようだ。
「ちょっとこれ借りるよ!」
そう言って私は、近くにいた一年生が持っていたほうきを取り上げた。
「無駄無駄ー!」
そのほうきを使って、私は水風船を切り裂いた。破裂した水風船から溢れた水が、私を避けるように顔の横を通過する。
「最悪!びしょ濡れじゃん!」
水がかかって嘆いている男子高校生を無視して、私は再び廊下に飛び出した。
「待てこらー!」
水風船はまだ尽きない。
ガララッ
私が次に逃げ込んだ教室は、パソコン部が使っているコンピュータ室だった。
「ちょっと! あなたは誰でありますか! ここは部外者立ち入り禁止でありますがゆえ!」
眼鏡をかけ、いかにもパソコンに詳しそうな一人の生徒が、私にそう言った。
「ごめんなさい! 敵に追われてて…」
「それなら私も一緒ですよ! うわ! 目を離してる隙にHPがこんなに減ってる!」
「あ、オンラインゲームね」
再びガララッと音がして、春野さんが教室に入ってきた。
「いや、だからあなたたち誰なんですか!? 部外者は立ち入り禁止でありますがゆえ…」
「黙れ! 私が用があんのはそこの女だよ!」
そう言って春野さんは、通算99個目の水風船を投げてきた。
この教室に逃げ込んだのは間違いだった。パソコンが並べられたこの部屋は非常に狭く、回避するためのスペースが全くないのだ。
「くっ…腰が痛いけどあれをやるか」
私は腰を曲げ、その水風船をかわした。秘技「ブリッジ」だ。この技は、狭い教室などに追い詰められた局面で非常に役立つ。
水風船は、いかにもパソコンに詳しそうなやつが使っていたパソコンに直撃し、破裂した。
「オーーーマイゴッド!! フリーズフリーズ! せっかくレベルを上げたっていうのに! 僕のパトリシアァァァァァ!」
発狂に近い叫び声をあげ、いかにもパソコンに詳しそうな奴は、春野さんに詰め寄った。
「どうしてくれるんだ!? 僕のパトリシアを返せ! パトリシアァァァァァ!」
「誰だよパトリシアって!」
春野さんが彼に手間取っている間に、私は再び廊下へと出た。
「あ、待てこら美香!」
水風船はまだ尽きない。
私はグラウンドに出た。
「待てや美香ー!」
「さっきから待て待て言ってるけど、待つわけないから!」
そう言った瞬間、私の体はよろめいた。何か謎の物体に、私は激突してしまったのだ。
「あ、美香じゃねえか。お前何してんだ?」
その謎の物体の正体は、健二くんだった。一気に体温が上昇していくのを感じる。
「け、健二くんこそ、なにしてんの?」
「何してんのって…。俺は野球部の練習中だよ。今こっちにボール飛ばしちゃってさ、探してんだ」
「へ、へー、そうなんだ」
「…お前、顔赤いぞ。熱あるんじゃね?」
そう言って健二くんは、私のおでこに手を伸ばした。健二くんが、私の体に触れている。高くなった体温は、さらに上昇し、頭がクラクラとした。
私の感情はすでに爆発寸前で、理性はほとんど失っていた。今、ここで言うしかない。私は健二くんのことが好きだ! 好きだ好きだ好きだ! 大好きだ!
「健二くん。私、健二くんのこと…」
バシャッ。
私の顔から水が滴り落ちた。
通算100個目の水風船が、私の顔面に直撃したのだ。
「やっと…やっとだ…。やっと美香の化けの皮を剝がすことに成功した…!」
化粧は全て落ち、私の顔は、本当の私の顔になってしまった。
健二くんは、私の顔をずっと見つめている。終わった。私の本当の顔を見て、健二くんは絶望しているのだろう。もう死んでしまいたい、と私はそう思っていた。
「お前…」
あぁ、もうわかってるから。わかってるから言わないで。私の顔が醜いってことは、自分自身で百も承知してますから。
「すっぴんの方が可愛いな」
今思えば、毎日化粧をして、本当の顔を見られることを怖がっていた自分は本当に馬鹿だった。
そのことを、あの日、健二くんが教えてくれたのだ。
今日は卒業式、まだ、健二くんへの思いを伝えることはできていない。
「美香…あんた、今日告るの?」
春野さんとは、あの日の死闘の後、私から和解を持ちかけて、今では親友と呼べる仲になった。
「いや、どうかな…」
「まだビビってんの? あいつ東京行っちゃうよ?」
「そうだけど…」
「あ、健二だ」
春野さんが指さした方を見ると、そこには健二くんがいた。
「てかこれチャンスじゃん! 今あいつ一人だし!」
「いや、でも…」
「早く行けよ! また水風船投げつけるぞ!」
そう言って春野さんは私の背中を押した。健二くんが私に気付く。
「おう。美香か」
「も、もう卒業だね」
「ああ、ほんと早いよな。お前が春野に水風船投げつけられた日あるじゃん? あれ昨日のことみたいに覚えてるよ。いやー、あれはほんとに面白かった」
健二くんはクシャッとした笑顔でそう言った。その笑顔を見て、私は改めて、この人のことが好きなんだ、と感じる。
「ねえ、健二くん…。ちょっと話したいことがあるんだけど」
「なんだ?」
本当の私の唇が動く。本当の私の目が健二くんを見つめる。本当の私の顔が、今、健二くんの目の前にある。
「私、健二くんのことが好きです!」
私はこれからも、私だ。