そらのそこのくに せかいのおわり 〈Vol,01 / Chapter 07〉
時計の針は、午後九時を回った。眠りにつくにはまだ早く、外を歩くにはもう遅い。多くの家々では夕食を済ませた人々が、居間や寝室で思い思いの時間を過ごしている。
事件が起きたのは、そんなときだった。
町中に響き渡る大きな物音。次いで、女性の叫び声。誰もが何事かとカーテンを開け、外の様子を窺った。
思考が停止する。
体長三メートル以上はあろうかという怪物が、その手に人間をぶら下げて、路地裏を徘徊していた。怪物の頭は二つ。腕は四本、足も四本。同種の生き物二体を無理矢理繋いで一体にしてしまったような、不自然な姿。
あれはいったい何なのか。市民らは息を殺して、その挙動を窺う。
「いたぞ! あそこだ!」
「化け物め! 奥様をはなせ!」
路地の奥から武装した男たちが駆けてくる。あれはキュンメル百貨店が雇っている警備員である。子爵領で一番の大店キュンメル百貨店には、騎士団支部にも引けを取らない立派な私設警備部隊がある。その警備員たちが「奥様」と呼ぶのだから――。
「た、助けて! 早く! 早く助けなさいよぉぉぉーっ!」
ヒステリックな声で叫ぶその女性は、キュンメル家の一人娘、アンヌである。子爵家に嫁いだ後、あっという間に出戻ってきて、離婚したのか、していないのか、近所の住民にもよく分からない状態で今日に至る。
わがままで横暴で理不尽で、とにかく頭の悪い女だが、見殺しにするわけにはいかない。
「このバケモノめ!」
「その人をはなせ!」
「これでも食らえ!」
勇敢な住民らが、窓から物を投げつける。本、植木鉢、椅子、花瓶、何かのオブジェ――その他色々な物が怪物に直撃するが、まるで効いていない。怪物を追ってきた警備員らも背後から斬りつけているのだが、傷をつけるどころか、剣を持つ手が痛くなる始末だ。
「こいつ、なんて硬いんだ!」
「剣が駄目なら、魔法を……」
「待て! 奥様に当たったらどうするんだ!」
「クソ、一体どうしたら……」
打つ手なし。怪物は人間たちのすることなど意に介さず、ウロウロと路地裏を徘徊し続ける。
そうこうするうちに、キュンメル家からの通報を受けた騎士団員が駆けつけた。
剣も効かず、魔法も使えない。事前にそう聞かされていた支部員らは、到着と同時にガスを使った。
はじめに用いたのは麻酔ガス。猛獣を捕える際に使用する物だが、残念なことに、眠ったのはアンヌだけだった。多少は効いているらしいが、これ以上散布すればアンヌが死んでしまう。
支部員らは、ふらつく怪物に二種目のガスを見舞う。
催涙ガスである。
麻酔で弱ったところに催涙ガスを食らっては、さしもの怪物も無事では済まなかったようだ。手にしていたアンヌを投げ捨て、身を屈めて苦しみだした。
「それ! 今だ!」
ガスマスクをつけた支部員らが、一斉に怪物に群がる。
「《緊縛》発動!」
魔法によって造り出された鎖が、怪物の身体を絡め取る。これは犯罪者の捕縛に使われる魔法である。鎖一本でもかなりの強度があるはずなのだが、怪物の力は予想をはるかに上回っていた。
「うわぁ! 切れた⁉」
「噓だろ! 十人がかりだぞ!」
「そ、総員退避! 退避ーっ!」
「ギャ!」
「ひぃ!」
「走れ! 走れーっ!」
手負いの獣ほど恐ろしいものは無い。怪物は大きな手で支部員らを投げ飛ばし、硬い蹄で蹴散らしていく。ほとんどの支部員が一撃で骨を折られ、行動不能にされてしまった。
その後、増援が到着。アンヌを保護した以上、もう魔法の使用を躊躇する理由はない。日頃の訓練の成果を遺憾無く発揮し、各々、自身が習得した中で最高難度の魔法を連射した。
怪物は耳障りな奇声を上げ、路地から路地へと逃げ回る。だが、大したダメージは与えられていないようだ。ガスによって鈍っていた動きが、徐々に戻ってきている。
外的な攻撃は効果が薄い。ならば体内に直に効く攻撃、神経ガスを使いたい。しかし、住民らがまだ付近にいる。突然戦闘が始まったため、避難誘導などできなかった。気密性の低い木造住宅では、中にいる住民らもガスを吸って死んでしまう。
「支部長殿! この道の先に市民ホールがあります! あそこの大ホールならば、完全に密閉できるのではありますまいか!」
支部員の進言に、支部長は一も二も無く頷いた。完全な遮音性能を誇るコンサートホール、それはつまり、機密性が非常に高いことを意味する。
彼らは数の利を最大に活かし、攻撃を加える方向、タイミングを調整することによって怪物を誘導した。
閉じ込めた怪物に神経ガスを食らわせ、四肢の自由を奪い、止めを刺す。
そう、ここまでは上手く行っていた。すべてが計画通りに進み、誰もがホッと胸を撫で下ろしたのだが――。
「ぎゃあああああぁぁぁぁぁっ!」
後始末をしている最中、突如響いた仲間の悲鳴。その声に驚き、振り向いたことを、誰もが後悔した。一目散に駆け出していれば、こんな惨状を目撃せずに済んだのにと。
怪物が立ち上がっている。
悲鳴を上げた本人は、四本の腕に両手足を一本ずつ掴まれ、今まさに、身体を引き裂かれて絶命するところだった。
二つあった頭部のどちらも、たしかに死んでいる。口や眼窩から剣を突き刺し、確実に止めを刺した。それは間違いない。しかし、誰もがそれを見逃していた。長い毛足の間からチラチラと見える、三つ目の首。両側の二つの首が死んだことによってはじめて見えた、中央の白く小さな顔――それはアンヌが傍に置いていた、あのメイドの顔だった。
アンヌが呪符の起動呪文を唱えた瞬間、メイドはアンヌのすぐ後ろにいた。スカートの下には、こっそり抜き取った二枚の呪符。ガーターベルトに挟み込んでいたその呪符にも、アンヌの声は届いていた。
時空の裂け目が発生し、モンスターが出現する。そのプロセス自体は変わらない。けれどもこの呪符は、メイドの身体にピタリと貼りついた状態だった。出現座標に『異物』が存在し、なおかつ二体が全く同じ場所に呼び出されてしまったのだ。
メイドと二体のモンスターは混ざり合い、異形の怪物となり果てた。
怪物は、手にしている支部員の亡骸を、虚ろな目で眺めている。
「……ます……」
何事かを呟いている。だが、その声が聴こえた者などいない。誰もが我先に出口へ殺到し、そうでない者は、恐れおののき、腰を抜かして失禁している。
「……いたしますね、御主人様……」
怪物が動いた。四本の腕を、頭上に掲げる。
「お食事のお支度をいたしますね、ご主人様……」
手にした亡骸からしたたる血液。それが左右の頭に降りかかる。
「いかがですか? お口に合いますでしょうか? おかわりはいかがですか……?」
淡々と、儀礼的に発したような言葉。メイド本人の意識はない。脳が記憶している言葉と行動が、モンスターの本能的行動と奇妙に結びついている。
怪物は、血が流れ尽くした亡骸を、不思議そうな目で眺める。
「……おかわりは、いかがですか?」
息絶えた左右の首。メイドはその口に、支部員の死体を突っ込んだ。喉の奥までグイグイと、強引に捻じ込んでゆく。するとどうだろう。あろうことか、死んでいたはずの頭がビクビクと動き出し、咀嚼を始めた。
人の死体が噛み砕かれる、クチャクチャという音。コンサートホールに響き渡るその音に、逃げ遅れていた支部員は、精神の均衡を失った。
「あ……は……はひっ。ひひひひひ。ひあぁーっはっはっはっはぁーっ!」
何がおかしいのか。調子外れの笑い声が、腹の底から溢れてくる。止まらない。止めようと思うことすらできない。怪物の手が自分のほうに向けられても、手足を掴まれても、もはや彼に、抗うだけのまともな意思は残されていなかった。
彼は笑顔で絶命した。
それから十数分後。コンサートホールの屋上に、ピンクのペガサスが舞い降りた。
重力を感じさせないふわりとした動作で、優雅に屋上へと足を下ろす。長いたてがみを夜風になびかせ、長い睫の下から、うるんだ瞳で主人を見る。
「到着いたしましたわ、ご主人様❤」
もしもこの馬が口を利いたなら、そう言っていたに違いない。
ペガサスから降りたマルコは、何とも中途半端な表情で馬の目を見つめている。
「気のせいでなければ、この馬。瞳の造作に尋常ならざるこだわりを持って制作されていませんか……?」
通常、牛や馬を模した実用ゴーレムは細部の造作に手間を掛けない。馬車や荷車が牽けて、重量物が運べればそれでよいのだ。見た目を重視して作られるのは、一点物の愛玩人形くらいなのだが――。
「呪符製作者の勘違いだ。うちの隊長がオーダーしたから、隊長本人が乗るもんだと思い込んじまったらしい」
「は、はあ……確かに、そちらの隊長殿ならば、その……睫毛の長いペガサスでもお似合いになりそうですが……」
「だよな。背景が常にお花畑でも問題なさそうだし……っつーかよぉ、こんなところに金掛けるから、コンドルの羽根が買えなくなるんだぜ。もっと黒っぽい色にしてくれなきゃ、隠密行動で使えねぇってのに……」
頭を抱えるロドニーに、マルコは同情を禁じ得ない。誰が考えても分かる。ド派手なフラミンゴ色、それも成人男性が二人乗りできる大型ペガサスで、隠密行動は出来なかろう。
しかし隠密任務以外では、それなりのメリットもある。
「マルコ様! お待ちしておりました!」
夜目にも目立つピンクのペガサスを追って、数名の支部員が屋上に上がってきた。こちらから探すまでも無く合流できる点は、少しは評価できるかもしれない。
「状況は?」
「はっ! 今は、なんとかホール内に閉じ込めてはいるのですが、こちらの攻撃は効かず……もう、これ以上は……」
全員、疲弊しきった顔をしている。魔法で扉をロックしても、中の怪物を倒せるわけでは無い。時間が経てば経つほど、こちらが一方的に消耗するだけなのだ。
打開策も無く、自分たちには時間稼ぎしかできない。不甲斐無さに拳を震わせる支部員に、マルコは凛とした声音で告げる。
「皆、よく耐えてくれました。あとは我々が引き受けます。ホール内の配置図と、敵に関して判明している全ての情報を。まずは策を立てましょう」
いつもと変わらぬ、落ち着いた口調。これだけで、支部員らの士気はぐっと持ち直す。
(本当に、こっちを次期子爵に推したくなるよなぁ……無自覚なのにリーダーの器だぜ……)
本人にその気が無くとも、才能を持つ者はいる。世の中は実に不平等だなぁ、などと考えながら、ロドニーはマルコの後に続き、市民ホールに入って行った。
臨時の作戦本部は『映写室』に設置されていた。ここはそもそも、スクリーンに映像を映し出すための部屋。ホールの一番後ろから、場内の全てが見渡せる。
ガラス張りの覗き窓からそっと様子を窺い、ロドニーは慌てて頭を引っ込めた。
「い、今、目ぇあった気がするんですけど?」
「いえ、向こうからは見えていません。この窓はマジックミラーのようになっていますから」
「あ、それなら良かった……」
ロドニーは胸を撫で下ろし、現場の指揮を執っていた支部長から、怪物についての説明を受ける。
頭は三つ。真ん中の一つは、左右の首と毛に埋もれてほぼ見えない。
ガスは効くが、死に至らしめるほどではない。
物理攻撃は効かない。
魔法攻撃は効き目が弱い。
左右の首を殺したが、真ん中の首が人の血肉を与え、復活させてしまった。
殺しても復活するとは、非常に厄介である。頭を三つ同時に落とせば死ぬのだろうか。それとも、トカゲの尻尾のように再生できるパーツなのだろうか。
頭が駄目なら心臓を狙いたいところだが、どう見ても、生まれつきこういう生き物とは思えない。牧草地帯で大量駆除したあのモンスターを、二体融合させたような形状である。心臓をはじめとする臓器類がどこに、どのような配置で収まっているのか。外から判断することはできなかった。
それに、気になるのが――。
「真ん中の頭は、人間だったんですね?」
「ええ、若い女性のようでした」
「そいつに、支部員が五人食われている、と?」
「はい。はじめに引き裂かれたのが一人目。それを見て発狂したのが二人目。腰を抜かして動けなかった者が三人目で、三人目を助けようとホールに戻った者が四人目と五人目です……」
「……食った生き物を取り込むタイプのモンスター……なのか?」
だとすれば三つある頭のどれが『食った側』なのか気になるところである。ロドニーが知る限り、捕食した獲物の姿形をコピーするモンスターは、このように複数の頭部を持つことは無い。
「まあ、ともかく。出来る限りのことはやってみます。支部の皆さんはマルコと一緒に、外から扉の封鎖を続けてください。全力で暴れさせていただくんで、魔法障壁もよろしく」
「えっ? あ、あの、お一人で入られるおつもりですか?」
「はい。でないと、全力出せませんから。あ、これ、支部長さんに預けておきます」
「これは……?」
「特務部隊長への直通端末です。俺がブチ切れて収集つかなくなったら、それで隊長に連絡してください。それじゃ」
「へ……あ、はあ、特務部隊長に……」
支部長は何のことだか分からず、目を瞬かせている。ペガサスでの移動中に事情を聴いていたマルコは、何とも渋い表情を浮かべ、コンサートホールの今後に思いを馳せていた。
全ての扉を封鎖した状態でも、コンサートホール内に入り込めるルートはある。ここは地方都市の市民ホールとしては珍しく、本格的なオペラも上演できるよう、最上級の舞台装置が備えられている。ということは、もちろんあるのだ。ステージ下から舞台中央への、『せり上がり』と呼ばれる昇降装置が。
ステージ下の空間で、ロドニーは装備品の最終チェックを行う。
剣ははじめから抜いている。鞘は邪魔になるので置いて行く。腰にはナイフ、胸ポケットには数種の呪符、ワイヤー、手榴弾。そして左手には短銃を一丁。
(銃の設定は……)
攻撃用に設定されていることを確認すると、ロドニーは合図を出す。昇降機の操作盤横に待機していた支部員は、敬礼し、稼働ボタンを押した。
「う……っ!」
大道具用の昇降機ではない。道化師や伏兵に扮した役者が、一瞬で舞台上に登場するための装置だ。バネ仕掛けの射出台は、とんでもない勢いでロドニーの身体を押し上げる。
(ひ、膝の関節おかしくなるぞコレッ!)
なんの予行演習も無しに挑んだロドニーの、率直な感想である。バランスの取り方などにコツはあるのだろうが、生憎、分析している余裕はなさそうだ。
昇降機の駆動音に気付き、怪物が振り返る。
「《衝撃波》!」
着地と同時に魔法を一発。ダメージを与えるためではない。怪物の身体を弾き飛ばし、距離を取ることが目的である。怪物はオーケストラボックスから、客席側に飛ばされた。
ロドニーは近付かない。一撃食らって、相手がどのような反応を示すか。まずはそれを確認したかったのだ。
怪物は緩慢な動作で起き上がると、壊れた座席を見て何事かを呟いている。
「……たし……ま、す……」
「ん?」
言葉のように聞こえた。こちらに向かってくる気配もない。
「なんだって? もう一度、言ってみてくれるか?」
ひょっとしたら、対話が可能な相手なのではないか。そう思ったロドニーは、ごく普通の口調で話しかけた。
ロドニーの声に反応しているのか、呟き続けているだけなのか。先程よりは聞き取りやすい声で、怪物はこう言った。
「申し訳ありませんご主人様、ただいま、片付けます……」
「……ご主人様? おい、お前のご主人様って、誰だ?」
「誰……? 私の、ご主人様は……ご主人様は……誰……?」
言葉が通じている。会話しているとは言い難いが、こちらの言うことは、一応聞いているらしい。
(まさかこいつ、例の子爵夫人とやらに飼われてるのか……?)
飼い主がいるモンスターならば対処は簡単だ。所有者をここに呼び出し、「大人しくしろ、暴れるな」と命令してもらえばいい。何らかのトラブルで一時的に暴れたのだとしても、沈静化している今なら言うことを聞くはずだ。
「お前のご主人様、誰だか思い出せるか? 名前は?」
「な……ま、え……?」
「分からないか? じゃあ、顔は思い出せるか?」
「顔……か……お……いやあああああぁぁぁぁぁーっ!」
「え……?」
咄嗟のことに反応できなかった。
怪物は恐るべき速度で腕を振り回し、座席を一つ、ぱぁんと弾く。
劇場の床にボルトで固定された、鉄フレームの座席である。それがなんと、ゴムボールでも放ったような手軽さで宙を舞ったのだ。
座席はロドニーに直撃。成人男性としては標準的な体格のロドニーが、いともたやすく吹っ飛んだ。舞台奥の壁に、激しく叩きつけられる。
「く……っそ!」
身体に圧し掛かる座席を払いのけ、素早く立ち上がる。突入前、マルコに防御魔法を掛けてもらっている。多少の衝撃は感じたが、怪我はない。継いで二撃目が来るものと思い、身構えた。しかし、怪物はこちらを見ていない。出鱈目に腕を振り回し、身悶えるように体を捩る。
「いやよ! いや! 死にたくない! 死にたくない! 死にたくないのーっ!」
怪物の甲高い悲鳴が、ソプラノシンガーの歌声の如くこだまする。
「な……なんだ? こいつ、いったい……?」
ロドニーには分かるはずもない。メイドが思い出した主人の顔は、モンスターに食い殺される犬たちを見て、歪んだ笑みを浮かべるアンヌなのだ。彼女が人間だった、最後の瞬間に感じた死の恐怖。その恐怖の元凶は、アンヌに殺されぬよう、呪符を抜き取ったことにある。主人の顔を思い出したことで、その恐怖が蘇った。
「来ないで! 来ないでーっ! いやあああぁぁぁーっ!」
メイドは恐れていた。死ぬことを。己を死に至らしめるものを。アンヌと、アンヌによって差し向けられるモンスターを。まともな思考力は残っていない。今の彼女は、記憶と感情の残滓によって『それらしい言葉』を発しているにすぎないのだ。その『残りカス』のような脳で、視界に映る熊のような手を自身の一部と判断することは不可能だった。彼女は今、こう思っているのだ。
モンスターが来た、逃げなくちゃ――と。
発狂し、暴れはじめる怪物。ロドニーを狙っているわけでは無いのだが、周囲への被害は甚大である。手当たり次第に座席を掴み上げ、四方八方に投げまくる。
「おい! こら! やめろ! 何もしないから! なっ?」
飛来する座席を躱しながら声を掛けると、怪物は再びロドニーを見た。
そこにいるのは、中肉中背の茶髪の青年。
袖口と襟元に錦糸の刺繍を施した、純白の軍服。
右手に剣、左手には王侯貴族のみが所有を許された魔導式短銃。
足元は乗馬用長靴とよく似た、特殊構造のタクティカルブーツ。
そのいでたちは、間違いなく王立騎士団特務部隊だった。女王直属の部隊で、どんな特殊な問題もたちどころに解決するエリート集団。それはこの国の誰もが知る、かの有名な『バカ貴族お仕置き部隊』である。
このメイドの頭の中に、特務部隊に関する記憶はしっかり残っていた。
それが災いした。
(良かった! 来てくれた! お願い助けて! 私はここ……!)
恐ろしい怪物から逃れ、騎士の腕に抱かれるか弱い女。少なくとも、人間だったころの彼女はそうだった。そして今も、彼女はそのつもりである。
「ヴォアアアァァァーッ!」
「オオオオオォォォォォーッ!」
左右の首から雄叫びを上げ、ロドニーに向かって突進する。
「《衝撃波》!」
真っ向から当てられた。けれども、先ほどのように吹っ飛びはしない。突進してきた勢いがわずかに削がれただけで、怪物はなおもロドニーに向かう。
「はっ!」
掴みかかろうとした怪物の腕を、剣で薙ぐ。ゾリっという耳障りな音を立て、腕の表面、体毛と一部の皮膚が削ぎ落とされた。
「ギャアアアァァァーッ!」
向かって左側の首が悲鳴を上げる。
痛覚はあっても、メイドの脳とは繋がっていない。メイドは融合した自分の身体が攻撃されているとは思わず、『助けに来てくれたナイト様』の胸に飛び込むべく、必死に腕を伸ばしている。
現状、身体の制御は主にメイドの脳が司っている。一度死んだ両側の首は、動物的本能で手にした生き物を捕食しているに過ぎないのだ。支部員たちに掴みかかったのも、救いを求めてのことなのだが――。
「うるぁっ! この野郎! やっぱ話の通じねえ食人モンスターか! この!」
ロドニーに、融合したメイドの事情など分かるはずもない。四本の腕でわらわらと掴みかかるその動作を、『捕食を目的とした攻撃』と認識した。
一瞬の隙を突き、ロドニーは真上に跳躍する。
ロドニーを追って上を向く左右の首。そのうち、腕へのダメージを受けた左側の首を狙う。
どんな生き物も獲物が頭上にいれば、大口を開けて、それが落ちてくるのを待つものである。ロドニーはポカンと開けられた怪物の口に、攻撃用魔弾を撃ち込む。
爆発力より貫通力を重視した魔弾は、その名の通り、虎牙の如く突き刺さる。口から喉、内臓へと一直線に破壊し、怪物の身体を貫通した。突き抜けた弾丸と共に、尻から大量の血と臓物が噴き出す。
ロドニーは死んだ頭を蹴りつけ、怪物の背後に着地。体勢を整え次の攻撃をと考えていた。だが、怪物の反応は予想以上に速かった。
「ぐっ……」
頬に裏拳が極まる。双方振り向きざまのこと。回転エネルギーは、ただでさえ強い攻撃力をさらに増幅させた。防御魔法を掛けているというのに、普通に殴られたような衝撃である。魔法が無かったら、頭蓋を粉砕されていたに違いない。
揺れる視界を気にする余裕も無く、ロドニーは大きく後ろに跳び退る。
(クッソ! ヤベエ、脳震盪かよ!)
なんとか着地は出来たが、立って構えることはできなかった。片膝をつくロドニーに、怪物が迫る。だが――。
(……ん?)
やはりこれは、不自然な融合体なのだ。半身が死んだ状態なのに、それを自覚していない。まっすぐ歩けないことが分からぬようで、死んだ半身を軸にして、勢い余って一回転した。
「ううう……うううう……っ!」
獲物に向かって歩けないことに苛立ったのか、またも出鱈目に座席を投げ始める怪物。ロドニーは這うように移動し、まだ無事な座席の陰に隠れる。
(回復するまで、時間が稼げそうだな。っつーか本当に、ありゃあ一体何なんだ……?)
改めて観察するが、この世のモノではない、ということくらいしか分からなかった。
(真ん中の女は誰だ? なんでモンスターの一部になってる? いや、それとも、同種の生き物に擬態して獲物をおびき寄せるタイプか? でもだとしたら、遭遇した支部員の顔になってるはず……? 支部員の前にも誰か食ってるとか、そういうことなのか……?)
これまでに経験したありとあらゆる異常事態を思い出してみる。何か解決の糸口が見つかるかと思ったが、残念ながら、このモンスターの正体は掴めそうにない。
(両側を殺しても復活するなら、真ん中が『本体』と思うのが常道だろうな……。でも……ん~、なんつーか……)
うまく言葉では言い表せない違和感があった。理由は分からないが、中央の女の首を『本体』と仮定して切断したら、必ず後悔すると思った。
(全体的に、どう見ても不自然だし……クソ! なんかモヤモヤするな!)
踏ん切りがつかない。ロドニーはひとまず、残る右半身を攻撃することにした。
訓練で脳震盪を起こしたときには、回復まで三分かかった。今は、あのときよりは症状が軽い。
(あと三十秒もすりゃあ、それなりに動けるな。よし……)
呼吸を整え、タイミングを計る。
(椅子を投げて、腕が伸びきったところを……今だ!)
座席の隙間から左腕を突出し、魔弾を撃つ。
怪物は座席を投げ飛ばした直後。右半身の二本の腕は、いずれも肩より上にある。魔弾はロドニーの狙い通り、怪物の脇腹を抉るように貫通した。
体勢を崩す怪物に、今度は《衝撃波》を叩き込む。
いかに頑強な皮膚を持とうとも、それはコンディションが良好な場合に限ってのこと。口腔や内臓へのダイレクトアタックは非常に大きな打撃を与えていたのだから、脇腹の皮が吹っ飛んだ箇所を狙い撃ちすれば、通常の魔法攻撃でも十分な効果が見込めるはずである。
「ウルアアアァァァーーーッ! 食らいやがれえええぇぇぇーーーっ!」
エネルギーチャージに時間が掛かる魔弾と違い、《衝撃波》は人狼族が本能レベルで使用する魔法。一発ごとの攻撃力は《ティガーファング》より数段劣るが、何十発でも、何百発でも、己の魔力が底をつくまで連射し続けられるのが最大の利点である。
怪物は傷口を『空気の拳』でタコ殴りにされているようなもの。しばらくすると、ゆらゆらと頭を揺らしながら、膝から床に崩れ落ちた。
倒れた怪物の傷口からは、大量の血液とペースト状の肉片が流れ出ている。
「……やった……のか?」
怪物は倒れて動かない。しかし、支部員らはこれで油断してしまったのだ。まだ中央の首は無傷のまま。左右の身体がいつ復活してもおかしくない。ロドニーは座席の陰に身を隠したまま、静かに場所を移動する。復活と同時に攻撃してくるかもしれないと考えたからだ。
息を殺して様子を窺うこと一分少々。
怪物が動いた。
「うう……うあああ……あ、あああ……」
気味の悪い呻き声。どの首が発しているのか定かではないが、ブルブルと身震いを始めたのは、《ティガーファング》で口から尻まで縦に撃ち抜かれた、左半身のほうだった。
(チッ……やっぱり、頭だけじゃなくて内臓も再生できんのか……)
怪物はガクガクと震えながらも、必死に立ち上がる。だが、その様子を見ていて気付いた。
(……ん? さっきより、細い……?)
内臓を失って胴体部分が凹むなら、当たり前のこととして納得できる。ロドニーが気になったのは腕と足の太さだ。項垂れた右半身と比較すれば一目瞭然。左半身は、どう見ても細く、やつれていた。
(……なるほど。復活するにも、エネルギーは必要ってわけか……)
はじめの復活は、支部員の亡骸を食べることによって必要なエネルギーを賄ったのだろう。けれども今回は何も口にしていない。使えるエネルギーは己の体内に存在する分のみ。全身の筋肉を分解して生存のためのエネルギーとして使用する点は、ヒトやその他の哺乳類と変わらないらしい。
(ってぇことは、つまり……)
攻略法は単純明快。
復活するエネルギーが底をつくまで、殺して、殺して、殺し続ければよい。
人狼族にはうってつけの仕事である。
「っしゃあ! 本気出していこうか!」
様子を窺う必要は無くなった。
言葉の通じない相手であることも分かった。
周囲に余人はおらず、完全に一対一の状況である。
コンサートホールには、外側から魔法障壁も掛けられている。
躊躇うことなど何もない。ロドニーは心置きなく、本来の力を解き放つことができた。
映写室の窓から成り行きを見守っていた支部長と部下数名は、自分が何を見ているのか、まるで理解できなかった。
ロドニーが消えた。
いや、いるのは間違いないのだが、動きが速すぎて、何をしているか見えないのだ。
時折見える残像のような姿は、茶髪のベビーフェイスではない。大きく裂けた口、ピンと立った大きな耳、つんと尖った鼻の、オオカミの顔。
オオカミオトコは怪物の腕を掴み、振り回し、投げ飛ばす。怪物のほうも自身の生存の危機を認識したのか、先ほどとは比べ物にならない速度と破壊力で的確に攻撃を繰り出す。一進一退の攻防戦。どちらもダメージを負い、一歩も引けないギリギリの状況で戦っている。
一番見晴らしの良い映写室からホール全体を眺めているというのに、ステージ上手側にいたかと思えば次の瞬間には下手側、ふと気づけばホール中央、いつの間にか壁を駆け上がって天井付近からの奇襲攻撃と、その姿を追うだけで目が回りそうだった。
「こ、これが特務部隊……」
しばし絶句していた支部長は、部下の呟きでハッと我に返った。
「う、うむ。こんな戦いは、私も初めて目にする……」
「支部長殿。あの、我々は、十人がかりでも、あれを押さえつけることもできなかったのですが……」
「ああ……いや、それなりに、優秀な戦闘部隊だと自負していたのだがなぁ……」
「敵いませんね……」
「そうだな……」
世の中、上には上がいるものだ。わずかな力の差であれば対抗意識に火も着こうというものだが、あまりにも違う次元を見せつけられてしまうと、諸手を上げて降参するよりほかにない。
オオカミオトコはギャラリーの心中など知る由もなく、ただ忠実に、与えられた任務をこなしていた。
戦闘開始から二十分ほどが経過したころだろうか。
怪物の動きが止まった。
「あ……あう……ううう……」
すっかり痩せ細った怪物は、もはや自重を支えることもできないらしい。切なげな声を発し、ひれ伏すように倒れ込む。
そしてこのころには、ロドニーにも、上から見ていた支部長らにも、ある一つの事実がはっきりと分かっていた。
怪物の中央に、女性が一人、挟み込まれている。
左右の怪物が骨と皮だけになったことで、皮膚の内側に内包されたその人の姿が鮮明に浮かび上がっている。
怪物は痩せ細っているのに、女性の体はしっかりと、ふくよかな曲線のまま。
つまりこの人は、この怪物の一部ではない。
「……けて……助けて……お願い、早く、助けて……」
わずかに残った自我でそう呟き続ける姿は、痛々しく、直視に堪えないものであった。
ロドニーは念には念を入れて、呻き声を上げる左右の首に《ティガーファング》を撃ち込む。
左右のモンスターは沈黙した。もうどこにもエネルギーは残されていない。ロドニーはこれ以上の復活は無いと判断し、映写室の支部長に合図を送る。
「よし! 一班と二班は中へ! 三班、四班はこのまま防御結界を維持しろ! 警戒を怠るな!」
なにせ死者が出ている。干物のような姿であっても、心の底から『これで終わった』と思える者は一人もいなかった。
ホール内に入った支部員らも、女性の悲痛な声に、思わず目を伏せた。
モンスターに取り込まれてしまっている。救ってやりたいのは山々だが、方法が分からない。
マルコはロドニーに駆け寄り、支部長から預かった通信機を差し出す。
「お返しいたします」
「おう……」
人狼の姿になると、理性が飛んでしまうことがある。そんなときのために、特務部隊長への直通端末を預けたのだが――。
「……途中で、この子が中にいるのがハッキリ分かってよぉ……なんとかしなきゃって思ったんだけど……」
戦闘中、気分が昂ると暴走状態になる。それは自分でもよく分かっている。この女性を救うことを考え続けたからこそ、暴走せず、周囲への損害も最小に、的確な攻撃を続けられた。それなのに、肝心の『救い方』が分からない。
「怪物の皮を引っぺがせば、とも思ったけど……」
ロドニーの言葉に、マルコが首を横に振る。
「怪物とこの女性の皮膚組織が癒着していたら、大変なことになりますよ」
「だよな。この子の皮まで剥ぎ取っちまうかもしれねえし……」
「外科手術で取り除けるものなのかも、よく分かりませんしね……」
「魔法医に診てもらえばいいのかな?」
「いえ、そもそも、どういうメカニズムで融合しているのかが問題です。それにこの女性の身元は? どこで、どんな状況で取り込まれたのかが分かれば、解決策も見えてくるのではないでしょうか」
「なるほど。そうなると、そこはやっぱり、地元の皆さんにお尋ねするのが一番だろうな。なあ、みんなさ、この子の顔に見覚えねえか? けっこうかわいい顔してるし、チェック入れてたヤツもいるんじゃねえか? どこの子だ?」
ロドニーが声を掛けると、目を背けていた支部員らは、恐る恐る、女性の顔を覗き込んだ。そしてそのうちの一人が、「あっ」と声を上げた。
「お前、知ってるのか?」
「あ、その、人違いかもしれませんが……」
「何でもいいよ。とにかく言ってみてくれ」
「は、はい。その、この娘、キュンメル家のメイドではないでしょうか。アンヌ様と一緒に居るところを見たことが……」
その声を受けて、他の支部員らも続々と声を上げる。
「そう言われてみれば、そうだな! アンヌ様のメイドだ!」
「そうだそうだ。いつも後ろにいた子だよな」
「おいとかお前とかって呼ばれてたから、名前は知らないけども……」
「なあ、みんな。この怪物のこと通報してきたのって、確か……」
「キュンメル家だよな……」
「こいつに鷲掴みにされて引き回されてたのも……」
「アンヌ様だな」
「この子……ひょっとして人体実験にでも使われたんじゃないのか?」
「あの女ならやりかねない……」
「アンヌ様に事情を聴くべきじゃないか?」
「そうだ、それがいい」
話はあっという間にまとまってしまった。マルコとロドニーも異論はない。異論はないのだが、しかし。
「はたして、本当のことなど語ってくれるでしょうか……?」
「メイドがこの状態なのをいいことに、嘘八百を並べ立てるかもしれねえな」
「反論できるような状態ではありませんし……」
「元々、反論するような性格の娘を雇うとは思えないしな。一方的に罪を着せられるのがオチだろうぜ」
ロドニーの言葉に、支部員らも悔しさを滲ませる。身分制度のあるこの国では、庶民は貴族相手に裁判を起こせない。特例として認められる場合もあるが、判決は貴族側に圧倒的有利なものとなる。市民同士の裁判ならば死刑になるような罪状でも、加害者が貴族で被害者が庶民だと、軽い罰金で済むのが通例だ。
貴族を処罰するには、目撃者が大勢いる前で、現行犯で捕えねばならない。けれども貴族は、自分の手を汚さず、人を雇って悪事を働く。
貴族に相応の報いを受けさせるのは、並大抵の労力では適わぬことなのだ。
この娘を救うには、いったいどうすれば良いものか。
有効な手立ても無く、一様に押し黙る。
そんな男たちの頭上に、一羽の小鳥が現れた。気付いた支部員が声を上げ、全員が頭上を見上げる。
扉が締め切られた屋内に、唐突に姿を現す。そんなことができるのは、通信魔法《雲雀》によって作り出された幻影に違いない。だが、今このホールには――。
「えっ? だって、三班と四班の連中が……」
「どういうことだ? 防御結界の中だぞ?」
「どうやって入ったんだ……?」
狼狽える支部員らを睥睨するように、雲雀は頭上を旋回し続ける。
「誰宛だ?」
「全然下りてこないな……」
確かにリボンをくわえている。だから、誰かに何かを伝えに来たことは間違いないのだが、一向に下りてくる気配がない。
その様子に、マルコはハッとした。
「……兄上……兄上なのですか⁉」
雲雀はビクッとした。
自動制御ではない。誰かがこの小鳥を遠隔操作している。そしてそんなことが可能な術者といえば――。
「やっぱり兄上なのですね。やっと、私とお話してくださるのですか? ずっとお待ち申しておりました。さあ……」
マルコが手を伸ばすと、雲雀はおずおずと、警戒するようにその手に舞い降りる。
赤い光のリボンが、マルコの指に絡む。
「……その、マルコ。ばあやから話は聞いた。お前が、母上に命を狙われたって……」
ペガサスで移動した際、マルコは家に連絡を入れ、ばあやに伝言を頼んだのだ。
〈領内にモンスターを出現させていたのはアンヌ様でした。
つい今しがた、アンヌ様を訪ねた帰り、十六体のモンスターに襲撃されたのです。
状況から見て、首謀者がアンヌ様であることは間違いありません。
兄上はどこまでご存知だったのですか?
モンスターを支部の巡回ルートに転送したのは、私の命を狙ってのことでしょうか?〉
ばあやは扉の前で、マルコの言葉を一語一句違えることなく伝えた。
いつ、誰が、何を呼びかけても反応が無いジェフロワの部屋。今夜もきっと、返事のひとつも寄越さないのだろう――そう思っていたばあやの耳に、予想外の言葉が飛び込んだ。
「違う! そうじゃない! 僕は、マルコなら何とかしてくれると思ったから!」
その直後、信じがたいことが起こった。
扉が開けられた。それも、ジェフロワ自身の手によって。
「ばあや! 馬車の支度を! マルコに会いに行く!」
「ジェフロワ様……っ!」
感極まったばあやがジェフロワに抱き付いてキスの雨を降らせたことは、今回ばかりは、誰も不敬罪に問おうとしなかった。
そうして馬車に乗り込み、今に至るというのだから――。
「あの、兄上? そういうお話ですと、ひょっとして、今、大変近くにいらっしゃるということでしょうか?」
「……市民ホールの裏にいる」
「でしたら直接訪ねて来てくださればいいのに! なぜこのような至近距離で通信魔法などお使いに⁉」
「だ、だって、その……久しぶりすぎて、どんな顔してればいいのか……」
「兄上!」
「な、なに?」
「申し訳ございませんでした」
「え?」
「私は兄上を疑ってしまいました。本当に、申し訳ございませんでした」
「あ……だ……だって、それは……ごめん。僕も、もっとちゃんと、マルコに言わなきゃって思ってたんだ。僕は攻撃魔法が使えないから、代わりにあれを倒してほしくて……」
「あのモンスターがアンヌ様からの刺客であることは、いつからご存知でしたか?」
「最初からだよ。雲雀がどこから飛ばされたか、逆探知するくらい簡単じゃないか」
「簡単……って……兄上⁉ それは、王立大学魔法学部の教授陣にも非常に難しいと言われる技術ですよ⁉ 十回に一回成功すれば良いほうだと言われておりますが⁉」
「え、そ、そう……なの? 良く分からないな。僕、一人で練習してたら出来るようになっただけだし……」
「兄上! お願いです! これだけは言わせてください!」
「な、なんだよ、いきなり大きな声で……」
「貴方は魔法の天才です! その辺の術者にはできないことを、難なくやってのけている! 私はあなたを尊敬します!」
「……え?」
ジェフロワにとって、それは意外過ぎる言葉だった。
弟は何をやっても完璧で、容姿も抜群で、人当たりも良くて――きっと自分のことなんてなんとも思っていないに違いない。いや、むしろ蔑んでいるかもしれない。無能で不細工な兄に、憐みすら感じているのだろう。だから弟は、頻繁に訪ねてきては、扉の前であれこれ心配しているようなことを言っていくのだ。
ずっとそう思っていた。
それが何だ?
尊敬?
尊敬って、どんな気持ちだ?
それってたしか、ものすごく『良い評価』なんじゃなかったっけ?
遠隔操作しているジェフロワの表情がそのまま反映されているのか、雲雀は目を丸くして、阿呆のように口を開け固まっている。
マルコはそんな雲雀を優しく撫でながら、語調を変えて話しかける。
「いいですか、兄上。せっかくですから、これも言わせていただきますよ。私は嘘偽りなく、心の底から、兄上に爵位を継いでいただきたいと考えております。なぜなら、私は子爵以外にやりたいことがあるからです」
「やりたいこと……?」
「ええ。騎士団で、日々臣民のために戦うことです。子爵になってしまったら、自分の足で村内を歩き回ることもできなくなりますから」
「ええと……本当に? 家臣たちは、マルコを子爵にしたがっているけれど……」
「他人の要求なんか関係ありません。私は私のやりたいようにするまでです」
きっぱりと言い切るマルコに、ジェフロワは拍子抜けしたように言った。
「……こんなに簡単なことだったんだ……」
「はい?」
「なんだ。最初から、マルコとだけ話し合ってればよかったんだ。なんか、ほら、みんなが色々、ゴチャゴチャ言うからさ。もう誰の言ってることが正しいのか、全然分からなくなっちゃって……扉の前で、勝手なことばっかり言ってくんだ。誰と誰が結託してるとか、あれこれ企んでるから気を付けろとか……」
「兄上、大切なことを教えて差し上げます」
「なに?」
「ご自分はどうされたいか、常にそれを中心に据えることです。兄上は、爵位を継承されたら、まず何をされたいですか?」
「それは……」
「それは?」
「……謝りたい。いや、もう決めてるんだ。僕は、まずは領民たちに謝る。うちのことで迷惑をかけてごめんなさいって。それから、母上を裁判にかける。いくらなんでも、いい加減、やっていいことと悪いことの違いくらい分かってもらわなくちゃ。……ダメかな?」
「いえ、いいと思いますよ。ですがその前に、アンヌ様がモンスターを呼び出した当事者であると証明しなくてはなりません。残念ながら、こちらにはその証拠が……」
と、マルコが話をしている最中に、雲雀が消えてしまった。
兄の身に何かがあったのではないか。反射的に駆け出そうとするマルコに、その声は厳かに告げる。
「証拠はそこにある。大丈夫。僕はその子の分離方法も、モンスターの死骸が消えずに済む方法も知ってる。伊達に本ばかり読んでいたわけじゃないからね」
コンサートホールの一番後ろ、ステージ正面の扉。
開け放たれた扉の向こうに立っていたのは、マルコの兄、ジェフロワ・クエンティン本人だった。




