そらのそこのくに せかいのおわり 〈Vol,01 / Chapter 04〉
二人が騎士団支部に向かっているころである。クエンティン子爵邸には、気味の悪い物音が響いていた。音の発生源は長男ジェフロワの私室。重い本を壁や床に叩きつけ、ドスン、ドスンという耳障りな音を生じさせている。
ジェフロワの行動に意味はない。何かをしたいわけでも、誰かに何かを訴えたいわけでもない。かつては苛立った気持ちを抑えるために行っていたこの行動も、今となってはルーティンワークのようなもので、何もすることが無いからこそ、毎日行っていることである。
今日もひとしきり日課の壁叩きを済ませると、彼は自信を持って発動できる唯一の魔法、《雲雀》を使う。
これは彼が幼い頃に、父から教わった魔法である。父の前で《雲雀》を呼び出すと、お前は筋がいいと褒めてもらえた。嬉しくなって何羽も呼び出して、魔力の使い過ぎで熱を出したこともある。
幸せだった幼少期。だが、五歳になったころだ。突然あいつが現れた。
「お初にお目にかかります。マルコ・ファレルと申します。本日よりこのお屋敷でお世話になることになりました。どうぞよろしくお願いいたします」
棒読みの口上を述べ、出来損ないのオートマトンのようにぎこちなく頭を下げる。こいつは覚えたセリフを読み上げているだけ。それは分かったが、目を合わせた瞬間、ジェフロワの中にこれまで感じたことのない感情が沸き起こった。
恥ずかしかった。
自分より小さな子供が、これだけの口上を覚えて必死に挨拶をしているのに、自分ときたら――。
「う、うん。よろしく……」
頑張って考えて、勇気を振り絞って言えたのは、たったそれだけの言葉だった。
彼らはまだ子供だった。異母兄弟というものがどういう意味を持つ関係なのかもわからず、年が近い子供同士、自然と仲良くなっていった。そして親密になるほど、ジェフロワの心には、黒く、ドロドロしたものが溜まっていった。何かがおかしい。なぜ、自分はこんなに苦しいのだろう。そう疑問に思っても、まだ、その気持ちの正体に気付くことは無かった。その理由は、大人たちの態度だ。
自分に対して、大人たちは甘い。何をしても褒められる。失敗しても怒られない。
マルコのほうは、どんなに完璧に近いことができても、わずかなミスを指摘される。完璧にできるまで、何度だって練習させられる。
幼いころは純粋だった。そして馬鹿だった。この違いを『僕のほうが愛されているからだ』と信じていられた。
中学校に入学する年になって、やっと理解できた。
マルコは愛人の子。いつまでも『この家の子』ではいられない。だからこそ、どこへ出しても恥ずかしくないよう厳しくしつけられていた。
それに比べて自分はと言えば――。
「気にすることはありませんわ。中等学校になど通わずとも、家庭教師を呼べば良いのですから」
「その通りですよ。近頃では子供を学校に通わせるお家も増えているとは聞き及びますが、やはり貴族は貴族らしく、詩歌音曲と帝王学を学びませんと」
「近いお年頃のお話し相手でしたら、ほら、お隣のマーレニー家のリオン様とロゼッタ嬢がいらっしゃるではありませんか。ティーパーティーを開いてお招きしましょう」
「そうだ! 楽団と曲芸師も呼びましょう! うんと楽しい催しにすれば、嫌なことなどすぐに忘れられます!」
家来たちの気遣いが辛かった。
僕は何をやっても、みんなに褒められる優秀な子。心の底から信じていたのに、王立中等学校の入学試験は散々だった。配られた問題集は見たことも無いような分厚さで、難しい問題ばかり。周りの席の連中はそれを難なく解き進め、次々とページをめくっていく。
名前を書いて、冒頭の『基礎問題』を解いて――そこまでだった。その先は難解過ぎて、何が書かれているかも分からなかった。
ジェフロワが中学入試に失敗しても、マルコは何も言わなかった。何も言わず、いつも通りの態度で接していた。ジェフロワにとってそれは、心の底から嬉しく、また、これ以上ないほど恥ずかしいことだった。
彼は弟の気遣いに、このときようやく気付いたのだ。
いつもと変わらない態度。つまりそれは、ジェフロワとマルコがはじめて会ったあの日から、ずっとジェフロワの顔を立てつづけていたことを意味する。『愛人の子』として一歩下がり、『正妻の子』に花を持たせ――ときにはわざと負けて見せて。
恥ずかしかった。恥ずかしくて、恥ずかしくて、その日から彼は、マルコの顔が見られなくなった。
「兄上、先ほどからずっと俯いておられますが……どこか痛むのですか? お医者様を御呼びしましょうか?」
あるとき言われたこの一言が、なぜだか無性に癇に障った。
「うるさい! 僕に触るな! お前なんか大嫌いだ!」
本当に言いたかった言葉は、もっと、違う言葉だった気がする。けれどジェフロワの口から飛び出したのは、「大嫌い」という最悪の言葉で――。
「兄上……」
弟は、ひどく傷付いた目をしていた。
泣きそうな顔だった。
ああ、なんてことを言ってしまったのだと、胸が痛んだ。すぐに謝らなくては――そう、あのとき確かにそう思った。自分は弟に謝りたかったはずなのに――。
「二度と僕の視界に入るな! バカ!」
そう言い捨てて、自室に逃げ込んだ。それから何度かは外に出たが、なぜだか、世界の誰もが自分を嘲笑っているような気がした。
苦手だったのは、弟の目を見ることだったはずなのに。気が付けばジェフロワは、他の人間と目を合わせることができなくなっていた。
そうしていつの間にか、部屋から出られなくなった。
薄暗い部屋の中で、ジェフロワは《雲雀》を使う。
呼び出された小鳥は、人差し指の上でピコピコと跳ね回り、命令を待つ。
「ねえ、どこに行けばいいの? このリボン、誰に届ければいいの?」
もしも口が利けたなら、きっとそう言っているのだろう。けれどもジェフロワは、何も言わない。ぼうっとした目つきで小鳥を見つめ、しばらくして魔法を解除した。
誰に、どんな言葉を届けたかったのか。
思い出そうとしても、上手く思い出せなかった。




