ゆくひとへ。手紙
ゆくひとへ。いつかあえるような、もうあえないような。どちらにしても、やはり本当はすこしさびしいのだけれど。
背中を押すということは、決して歩きながらできることではないから。背中が豆粒になるまで、つま先をそろえて、襟を正して見送ります。
溢れてくる
文章を書くのは、溢れてくるから。
日常生活だけでは、とても行き場のない気持ちが溢れてくるから。
こんこんと湧き出ものが、自分を超えてしまったら。
膨らんで、伸びて伸びて、ほんの一瞬ギュッと縮んで破裂する。
だから
破裂しないように、みなと同じであれるように。
何でもない顔をして、脂汗を涼しい顔で隠して歩かなきゃいけないから。
だから、零すの。
文字が吸い込んでくれる。
満タンをとっくに超えているのに、蛇口も見つからないし、器もそうは変えられないから、
私は文字に零す。
満タンになるまで気が付けないのだけれど、それは溢れだすと器の縁に盛り上がって乗りあがって雪崩れるように滑り落ちていく。どうしようもない程に、あとから、あとから。
なんでも吸い込んでほしいのだけれど、気に入った言葉しか吸い込んではくれない。
だから零しては拒絶され、吐き出され、すーっと吸い込む言葉を探してぐるぐると回る。
ぐるぐると回る時間は、溢れたものが、まだかまだかと列を成す。
けれどそれは案外悪くない。
時間をかけて、ゆっくりと。
すっかり渋くなったコーヒーを、幾度か淹れ直すぐらいには。
すっかり文字に零してしまうと、
ゆるゆると水面が沈んでいく。
ゆらゆらと、いつだって鏡にはなれない水面が内在している。
それはひどく恐ろしく、けれども、どうしてだろう、少しばかり誇らしいこと。
ページの角が丸くなって、くたくたになったような冊子を棚から引き抜いて、
好奇心でぱらりと開いてみる。
とんちんかんで、くったくが無くて。
とんちんかんだと思う心に、羞恥を感じない心に、たくさんの季節がまわったことを感じる。
溢れるものもなく、のびのびと歩けることは素敵なこと。
たくさん色をつければいい。
好ましい香りを足すのもいい。いつか、ゆらゆらと水面がせり上がってきてもいい。
溢れるものが無いことは、枯渇したわけではなくて、うまく循環しているということだから。
とても素敵なこと。
たどたどしくしかし潔く、きれいな流れに乗ったひとを、応援したい。
急流に揺らぐ小さな小さな笹船のようなものだとしても、それはとても素敵なことだから。
ゆくひとへ。
ゆくひとへ。