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Two days , one night.

作者: madoneyuki

報われることのない、曇り空のような恋物語です。胃に穴を開けたい人向けかもしれません。

友人の友人の作る映像の原作として急いで執筆したため、いろいろとアラがあると思うので、マイナーチェンジを重ねていくかもしれません。

微妙な長さですが、すぐに読めると思います。よろしければ暇つぶしにどうぞ。

もし感想をいただけたらこのうえなく有り難いです。お手柔らかにお願いいたします。


 0


 悠と僕は幼馴染だった。それ以上でも以下でもない。その関係は現在進行形で継続しており、その事実は今後変わることのない事実として残り続けるであろう。僕と彼女が生まれてから、未来永劫、僕と彼女は幼馴染でありつづけるのだ。その関係性は事実そのものであり、その関係性を覆すには僕と彼女が幼少期仲良く遊んで過ごしたという事実を覆さなくてはならない。映画の世界でもない限りそれは不可能なことで、だから僕らは半永久的に幼馴染で在り続けるのだ。それ以上でも以下でもなく。

 ただし、事実としての幼馴染的関係以上に、僕達は仲が良かった。他の幼馴染が僕らと同じ年齢に育つまでにどんな末路をたどったのかは知らないが、幼稚園から高校までは同じで、大学こそ違えど、彼女とは大学のサークルが同じで、ほぼ腐れ縁の間柄で生涯を共にしてきたという経歴を持つ。(僕は地元の国立大学、彼女は近くの女子大に通っていた。彼女の大学には映画サークルが存在しなかったため、必然的に最寄りの大学で映画サークルのあるうちの大学に訪問せざるを得なかったというわけだ。)そんな長期間にわたるなかでとりわけて仲のいい友人同士として非常に良好な関係を維持できたのは、後にも先にも彼女くらいのものである。

 ところが、そういうふうに彼女が僕にとって伴侶的存在であるからといって、果たして漫画や映画のように彼女が人生の伴侶的存在になったかというとそんなことはなかった。どちらかといえば双子の兄妹であり姉弟のようであった。彼女は僕の意識が僕自身に意識される以前の幼少期から僕のそばにいて。僕は彼女の意識が彼女自身に意識される以前の幼少期から彼女のそばにいたのだから。

 僕と彼女の関係が劇的なものになるには、あまりに劇的な出来事が少なかったのである。

 客観的に見れば男と女であるから、小学生の頃はその仲の良さをはやし立てられたりしたものだ。だが、それを恥ずかしく思うどころか呆れて失笑しあうくらいには、僕達の関係は平和な倦怠に満ちていたのだ。

 大学を卒業して互いに別々の職場で働き始めてからは、正月の挨拶くらいしか顔を合わせる機会がなくなったが、自然と親どうしの情報交換から悠の現状は伝わってきたし、近所なのでいつでも会えるという状況もあって「長年連れ添ってきたツレと引き離されたことにより半身を失ったような悲しみを抱いた」なんて、それこそ劇的な感情に囚われることは別段なかった。

 そういった関係だったのだ。それは確固として厳然たる風貌を保ちながらそびえ立ち続ける中世の古城のように僕と彼女の間に横たわっていた。

 ところが驚いたことに、僕はただひとつの言葉によって動揺を喫してしまうのであった。

 それは就職して3年目の夏、仕事から帰って夕飯を実家で食べていた時だった。

 母による悠の近況報告。それが僕の、僕と悠のすべてをうち崩した。

 いや、破壊したのはほかならぬ僕達自身だったのだが。それでも。

 僕はあらゆるところに存在して、しかしどこにも存在し得ない責任を、追求し続けたい。もしそれが許されるのならば。他者に責任を追求せざるを得ないほどに贖罪のしようのない罪と罰を、僕達は受けることになってしまったのだから。

 それはまるで、アダムとイヴが禁断の果実を手にしてしまったように。

 これは僕の、僕と悠の、誰にも告白することのできない罪の物語である。


 1

 

 「そうそう、悠ちゃんね、勤め先の方と婚約したらしいわよ。いいわねえ、いい頃合いよねえ」

 僕は噛み切ろうとしていたエビフライから思わず箸を離してしまい、口からエビの尻尾を生やした状態で応対することになった。

 「コンヤク?」

 「そうよ。結婚を約束すると書いて婚約よ」

 僕はフライを飲み下して答えた。

 「それくらい知っているよ。しかしまあ・・・。・・・あの悠がねえ」

 「若いわねえ、いいわねえ。あんたもいい人いないわけ?」

 「まあそのうち紹介するよ」

 そんな人間は、まだいないけど。

 「あら、まあ楽しみにしているわね。しかしまあ一時期はあんたと悠ちゃんがくっつくもんだとばかり思ってたんだけどもね。異常に仲よかったものね」

 「そういう風に見れるわけないでしょ。あいつは。僕らはお互いに幼馴染であり、兄妹であって、姉弟だったんだから」

 そう平静を装いながらも、正直な話、僕は素直に驚いていた。彼女をそういった対象としてみる男性がいたということにまず新鮮な印象を抱いていた。彼女は大学まではずっと僕とべったりだったし、僕も彼女とべったりだったからだ。いや、むしろそういった観点から彼女を見るという現象そのものに少しながらのショックを受けていたのだろう。カルチャー・ショックに近い衝撃。

 僕にはそれが理解できなかった。

 相手はどんな男なのか。どういった経緯でそんなことになってしまったのか。あのおっちょこちょいに家事なんて出来るのか。(そもそも専業主婦になるのか?)実家を出て引越しをするのだとしたら、どこで暮らし始めるのだろうか。あの悠に子育てが出来るのだろうか。いや、そもそもあいつは働きに出て主夫に子育てを任せるのか。・・・・・・。

 想像は尽きなかった。

 僕は風呂に入る時も、眠りにつくときも、悠が誰かに貰われて嫁に行くという現象について考えを巡らせていた。しかし僕の中には、ひとつだけ靄の晴れない疑問が・・・その疑問が何なのか正体そのものの掴めない疑問が、喉に引っかかった魚の骨のようにくすぶり続けていた。

 この疑念はなんだというのだ。


 2


 悠と話してみたい。

 そう明確に意識したのは、悠の婚約の話を聞いた3日後の昼だった。

 生まれて初めての欲求に、僕は戸惑っていた。いた時には・・・いや、気づくというプロセスすらも必要としないくらいに、彼女は僕のそばにいたのだ。そんな彼女が、僕の知らない所で「結婚」という大きな人生の岐路に立っている。そんな彼女に、理由はわからないが強烈に会って話がしてみたくなったのだ。

 自分でもどうしたものかと思いながらその夜、僕は自分の携帯電話から悠の名前を選んで電話をかけた。

 数コール音の後、なつかしい悠の涼やかな声がイヤフォンから飛び出した。

 「なに?」

 この3年間、こちらから彼女に電話をかけたことはなかったし、彼女から僕に電話がかかってきたこともなかった。にもかかわらず、「もしもし」などの常套挨拶さえも介さずに要件を問いただしてくるあっけらかんとした彼女の声が、僕を安心させた。

 「よう、3年ぶりだな。そんな感じぜんぜんしないけど・・・。それはそうと、結婚するんだって?母さんから聞いたよ。おめでとう」

 「あー、それか。さすがおばさん、情報早いね」

 ころころと悠は笑った。最後に会った時と変わらない笑い方だ。なんだか3年前に戻った気分になった。

 「お前が結婚するなんて」

 「いやー、いやはやまったく、お恥ずかしい」

 特に遠慮することも無いので僕は本筋を切り出した。

 「なんだか理由はわからないけど、話してみたい気分なんだ」

 「ほんと?私も翔と話してみたい気分だったんだよね」

 「今度の休日、どっかで会わないか。近くの喫茶店とか・・・」

 「ん?じゃあせっかくだしさ、ちょっと付き合って欲しい所あるんだけど、いい?」

 「別に構わないけど」

 彼女が告げたのは、近隣にある観光地区の名前だった。電車で1時間ほどの山間にある温泉街で、以前そこで食べた をどうしてももう一度食べたいのだそうだ。

 話す時間はたっぷり確保できそうだったし、僕は快く了承した。

 「じゃあ、その日に」

 そう言って僕達は通話を終えた。


 3


 当日。久しぶりに見る悠は髪が肩のあたりにかかるかかからないかぐらいの長さに切っていた。

 「ずいぶんサッパリしたもんだな」

 僕がそう言うと、悠は最初何のことを言っているのかわからなかったようで、髪のことを言われていることに気づくと

 「仕事で鬱陶しくってさ。もう切ったのは数ヶ月前なんだけどね。そっかそっか、大学までは伸ばしてたもんね」

 大学を出るまで、彼女はずっと髪を伸ばしていた。一時期は腰辺りまでの長髪だったこともあった。

 「切った日は、もっと短かったんだぜ」

 そう言って笑う彼女は、元気そうだった。

 「翔はなんというか、ぜんぜん変わらないね。そのまま大学生出来るんじゃない?」

 「いやあ、さすがに中身が追いつかないよ。あの頃やってたような無茶は、もう出来る気がしないね」

 僕はあいまいに笑ってみせた。


   *


 僕達は目的地への電車に乗り込んだ。空はあいにくの曇り模様だ。

 電車が走りだした。田舎方面の特急列車なので、ほとんど途中停車することはない。灰色の風景が、えんえんと流れていく。

 休日にしては珍しく、車内には僕ら以外の誰もいなかった。

 ひと通りの近況を話すと、僕らの間に気まずい沈黙が流れた。だいたいのことは親から聞かされていたので、相互補完するような情報などあまりなかったのだ。僕らはお互いすることもなく窓の外を見つめていた。会ったはいいが、いざとなると何を話したらいいのかわからなくなってしまう。僕は何を話そうとしていたんだろう。話すことで、何を確かめたかったのだろう。悠が結婚すると聞いたあの日感じた「悠と話してみたい」という欲望の明確な理由は、いったい、なんだったのだろうか。

 ふと、悠の方を見る。悠は何を思って、流れる景色に目をやっているのだろう・・・。

 「どんどん街が遠ざかっていくね・・・」

 悠が眠たそうにつぶやいた。

 視線を窓の外に戻すと、たしかに車窓から見える風景には山の占める比率が多くなっていた。

 「・・・まあ、僕らの街も街って言うほど街じゃない気はするがな」

 「はは、それもそうだね」

 どういうわけか、悠も僕との3年ぶりの再会に、何を話していいのかわからないようなのだった。それから僕と悠は、結局目的地に着くまで、一言も会話することなく、座ってただ車窓の外を眺めていたのだった。

 

 4


 目的地についた僕達はひととおりこの観光地を懐かしがることにした。

 ここはかつて悠が親と進路のことで大喧嘩した時に、なぜか僕を巻き込んで家出してきたといういわくつきの土地だった。そういえばあのとき着の身着のままで出てきた悠に貸した電車賃および諸費は、いまだ未返却のままである。

 「なつかしいな」

 「高校生の頃以来だね」

 「あの時、なんで観光地に来たんだっけ」

 「修学旅行生にまぎれて、補導されにくくなるから」

 そんな理由があったのか。意外と姑息なことを考えていたんだな・・・。

 「帰ろうと思えば帰れる絶妙な距離だし」

 悠はゆっくりとこちらを見ながら言った。

 「ね、ほら、行こ」


   *

 

 僕は焦っていた。悠に何かを聞かなくてはならない。しかし、それがなんなのかわからない。とりあえず僕になんらかの興味を抱かせた、結婚に関することを聞くべきなのだろうか。いや、むしろそうすべきだ。かつて隔て無く語らうことのできていた僕たちが3年前と違う点は・・・3年間というブランクがあるという事実を一つの要素ではなく前提とした場合、そこにしか見いだせない。そう、どうしていままでそのことを話題にしなかったのかが不思議なくらいなのだ。

 だが何かが僕の中でシャウトしていた。本当にいいのか、それでいいのか、と。引き返すことのできない何かを予感させる何かが。だが・・・僕の僕自身に対する好奇心がその予感を圧殺してしまった。

 いまでも思う。ここで僕が臆病者のままでいたらどんな結末を迎えただろうかと。

 そして、臆病者でなかったがゆえに僕は一生十字架を背負い続けることになるのだが・・・臆病者のままでいたら、もっと自分自身を苦しみの中に投じることになったのだろうと思うと・・・僕はいつまでたっても、自分という人間を許すことができないのである。


   *

 

 土産屋の軒先で、僕はついに彼女に問題の核心を

 「ちょっと聞いていいか?」

 「なに?」

 「まあ・・・なんていうか、幼馴染の老婆心っていうかさ」

 「うん」

 「その、どうなんだ? 相手の人は」

 「相手の人・・・?」

 悠は一瞬本当にわからなかったようだが、すぐに合点が行った様子で

 「ああ、心配してくれてたんだ?」

 と眼を細めた。

 心配。僕は、心配しているのだろうか。自分の半身たる悠が、どっかの誰かのもとに行ってしまうことが。いや、そんな感じではない気がするが・・・。

 「いや、心配とかなじゃいけど、なんとなく気になってさ」

 「あ、嫉妬?」

 嫉妬・・・?

 「いや、それはちょっと違うような気が・・・」

 「なんだ、ちがうんかい。・・・・・・あのね、心配しないで」

 悠はくるりとふりむくと、僕にこれまで見せたこともないような笑顔を見せた。

 「とても優しくて。とてもいい人よ」

 その刹那。僕の胸の中に、奔流のように極めて凄まじい勢いで未知なる感情が沸き上がってくるのを感じた。僕はその現象に戸惑い、しかし、瞬間的に理解した。

 そうか、そういうことだったのか。

 なんてありふれた結論で、なんてわかりきった疑問だったのだろう。

 その疑問を疑問に思っていたことすのものが恥ずかしくなるくらいに単純な氷解。

 心配?

 嫉妬?

 そんなネガティブで複雑な感情に基づいたアンサーではなかった。

 もっとポジティブで、シンプルで、そして、誰もがかつて経験したであろう現象だ。

 嗚呼、僕は油断しきっていた。彼女があまりに近くにいたために。気づくことすら出来なかった。否。気づくことすらしなかったのである。

 つまりは、そういうことだったのだ。

 僕は、ものごごろついた時から、ものごころつく前から一緒にいた悠のことが好きで、好きで好きで、しょうがなかったのだ。

 婚約の聞いた時、悠と会いたくなった。その理由は、欲求と言うよりは衝動に近いものに基づいて構成されていたのである。

 「その」顔をする悠を、見たかった。

 愛する人のことを語る悠の顔を。

 恋する「女性」としての、悠を。

 そして。

 僕はずっと望んでいたのだ。

 悠が「その」顔を見せる相手が、僕であることを。

 彼女が「その」顔をする時、僕の隣にいることを。

 わかってしまえば極めてくだらない種明かしだった。要するに僕の片思いだったわけなのだ。僕自身がそれに気が付かなかった愚鈍だっただけの話。自分の臆病さに驚いたことには、悠の結婚について話題を出したくなかったのは・・・僕がそれに気が付きたくなかったからなのだ。いまさら遅すぎる、なんて後悔の言葉を口にするつもりはない。20年近くもの間チャンスを与えられ続けて、それを生かせなかった自分の責任だ。後悔なんてしたら僕の・・・ひいては、僕と悠の20年に対して礼を失することになるだろう。僕はそれをわきまえないほど子どもであるつもりはなかった。

 だがしかし・・・20年来の想いの集積が、莫大なものとなって僕の中に、まさにこの瞬間に立ちあらわれたかのような挙動をもってその存在を明らかにしてしまったいま、その衝撃をどう処理すればよいのか・・・ただそれだけが僕の中で目に見えるわだかまりとなって、この曇天の空のように鈍く僕の上へとのしかかっていたのである。


 5

 

 「悠、そろそろ帰らないと」

 「そうだね、ああ、なんかなんだかんだで楽しかったよ」

 夕方になるに連れて天気は回復の兆しを見せ、日が暮れる頃には綺麗な夕焼けが顔を出し暗がりの空と朱く染まった太陽の片鱗との見事なコントラストを際立たせていた。結局結婚に至るまでの過程を聞いたりなんだったりしている間に、悠の相手の人がどうやら本当に良い人そうだということがわかり、その点に関して僕は心配はなくなった。相手の人は同じ会社の出世頭で、僕らの4歳年上という若年ながら、なんと勤め先の副社長の懐刀としてバリバリやっている優男らしかった。あまりに出来過ぎたキャラクターに僕は目眩を覚えた。

 「翔、ダメだ。どうしよう。帰れない」

 駅の近くまで来た時に、悠が叫んだ。駅はやけにごった返していた。

 「どうしたっていうんだ」

 「あれ」

 「おいおい・・・嘘だろ」

 駅の正面には、「落石事故発生」「復旧ノ目処立タズ」「次回運行ハ明日昼以降」の張り紙がしてあった。

 「タクシー使えば帰れるかな」

 「ちょっと待って!」

 悠が小さく、しかし鋭く言った。

 「え?」

 「あ、いや、ここからだとタクシー、ものすごいかかるよ? 山道だし、蛇行するよ?」

 「まあ、それもそうだが」

 「どうせ明日仕事ないんでしょ? だったらさ、せっかくなんだし、久々に昔みたいにお泊りしていこうよ。多分そっちのほうが安くつくよ」

 「え? いや、ちょっと待てよ。どうせ明日電車乗るんだから運賃は変わらないんじゃ」

 「いいじゃん。昔話に花を咲かせようぜ。はやくしないんと、宿なくなっちゃうよ」

 「おい、悠」

 僕は悠に手をひかれるままに、もと来た温泉街へと戻っていった。


   * 

 

 悠にはこういう気まぐれなところがあった。思い立ったがすぐ実行に移さないと気が済まない性分とか・・・。正直、気の進まない提案だった。僕はさっさと帰って自分の気持に整理を付けたいのだ。

 ・・・と思っていたのだが、温泉に浸かり夕飯を食べると、ちゃっかり不意のぶらり温泉旅を満喫してしまっている自分がいるのに気がついた。

 「・・・まあ、何事も楽しまなきゃ損だよな」

 「そうだよ。翔は昔っから変に生真面目だからさ、人生損してるよ」

 「ああ、なんだかくたびれた。そろそろ寝るか」

 「うん。布団、二つ余っててよかったね」

 まったくもってそのとおりだ。これが一つだったりした日には、僕は急性の欝病にかかっていたに違いない。まあ、こういった事故の日に備えて人が余分に泊まれるよう、辺境の旅館は寝具を余分に用意してあると聞いたことがあるから、さほど心配はしていなかったが。

 電気を消して、布団に入る。僕達は布団を並べて隣同士になって横たわっていた。

 「あの日、家出をした日は、ここは日帰り旅行だったよね」

 「そうだな。なんであの日、僕も連れていかれたんだっけ」

 「お金がなかったから」

 「ああ、そうだっけ・・・」

 そういえば未払い分の旅費返せよと言う前に、悠が言葉を続けた。

 「今回は思いも寄らず泊まることになっちゃったね」

 「・・・ほんと、思いもよらなかったよ」

 しばらく沈黙があって、悠がまた口を開いた。

 「翔はさ、誰か良い人できた?」

 「いや、ぜんぜんだな。うちの会社、ブラックだからさ、そういうヒマねえんだ」

 僕は笑って言った。ブラックというのは少し大げさかもしれないが、忙しいのは事実だった。

 またやや沈黙があって、悠が言った。

 「あのさ」

 「なんだ?」

 「手、つないでもいい?」

 「いいよ」

 小さなものがもぞもぞと僕の布団の中に侵入してくるのを感じた。悠の手だ。悠は僕の右手を見つけると、ぎゅと握りしめてきた。なめらかな女性の手が、僕の手のひら一面にその感触を与え続けた。そしてその中央付近に、たしかに金属の感触を感じた。それが指輪であることは、すぐにわかった。

 「なんだか本当に昔を思い出すな。こんな寝方したの、小学生の頃以来か。布団並べて、手え繋いで・・・」

 「いや、中学校の時にも一度だけやったことあるはず。あの時はどうにかしてたよね」

 「え? なんだそれ。僕は覚えていないぞ」

 「あ、夢の中だったかも」

 「なんだ、それ」

 たわいない会話の間、僕はどうすれば僕の中にある彼女への思いの集積を始末することが出来るのだろうか、ということばかりを考えていた。だが、どうしても自分自身ではこの長く報われない初恋の愚かな結末に終止符を打つことはできないと思われた。

 だとすれば。

 僕以外の誰かにその終幕を降ろしてもらう必要があるということになるのだ。

 誰に?

 他でもない、悠当人だ。

 方法は簡単だ。悠が僕以外の人間とこの上ない・・・それこそ、嫉妬に狂い死んでしまいたくなりそうなくらいに、幸せになってもらうことだ。

 僕は彼女のことが好きだ。だから彼女には幸せになってもらわなくてはならない。そして、彼女の幸せが・・・僕ではない誰かとの幸せが絶対だった時に・・・僕が介入した所で僕など塵ほどの役にも立たない存在なのだとわかったとき・・・僕は、彼女への想いを過去にできるはずである。それがきっと、誰もが納得できうる方法論だ。僕にとっての望みであるし、彼女を諦める唯一の手段であるように思う。そして自分の思いの一つにさえ気づけなかった愚鈍として、僕は最初の恋を決定的に終わらせることが出来るだろう。

 その方法はあまりに簡単なことだった。

 彼女の幸せを、ただ確認すればいい。

 「悠」

 「どうしたの?」

 月の照らす薄明かりの中、僕は彼女の顔を見据えた。悠も僕の方を見た。

 「いま、幸せか?」

 そして、「うん」という屈託の無いその笑顔を見て諦めるはずだった。

 僕は自分自身の彼女への思いを、彼女に断ち切ってもらうことになるのだ。

 しかし。

 悠は驚いたように僕の方を向き、顔をくしゃくしゃにして、息を吸って、そして言葉を紡いだ。

 「なんて顔してるの」

 え?

 自分がどんな顔しているのかなんて、意識しているはずがない。彼女の左手におどろくほどの力が込められていくのがわかった。僕は自分自身のことより、悠の変化に驚いていた。

 悠は自分の布団を勢いよくあげると、上半身を起こして座り、僕の顔を見つめた。

 「悠」

 僕も上半身を起こす。

 「私たちは・・・ね、近すぎたんだよ。・・・・・・近すぎて、見えなかったんだ」

 声が出せない。悠、お前はどうしていまにも降り出しそうな雨雲のような顔をしているんだ?

 「私たちって?」

 「私はいま幸せだよ」

 なら、いいじゃないか。僕は彼女の幸せを願っている。彼女のことが好きなのだから。だって彼女と僕は、仲のいい幼馴染なのだから。

 「素敵な人と巡りあえて、結婚の約束をして、とっても幸せ」

 だったらどうして−−−−−−

 「だったら、どうして・・・そんな顔をしているんだ」

 彼女はいまにも崩れ落ちてしまいそうだった。

 僕は予想しうる限り最悪の予感に、自分の脈動が早くなっていくのを感じた。正体不明の爆発的なエネルギーが僕の胸の中から肺を切り裂いて皮膚を食い破り暴れて出ていきたがっているようだった。

 僕は彼女の幸せを望んでいる。そして、彼女は事実、幸せなのだ。それはわかっている。そんなこと、わかりきっていることなのだ。過不足なく互いに満足だ。それは間違いない。

 だったら、なぜ。

 そんな顔、しないでくれよ、悠。

 どうして・・・。

 ・・・・・・。

 その疑問に呼応するかのように、悠が指を差し出した。

 左手の、石膏像のような指を、僕に向けていた。

 浴衣から伸びる細く白い腕に、僕は脳が麻痺してしまったかのようにしばらく見蕩れていた。

 そして。

 すべてを理解した僕は、ひざまづいて、彼女の指から、彼女の華奢な薬指から。

 小さなダイヤモンドの輝くシルバーリングを、静かにそっと抜き取ったのであった。

 それはあまりに簡単すぎて・・・そしてあまりに遅すぎた答えであった。


 6


 翌日の午後にようやく復旧した電車に揺られ、僕と悠は帰路についていた。

 また、天気は曇りになっていた。

 鼻孔には、昨夜の悠の香りが、気持ちの悪いほどにこびりついていた。

 あまりに近すぎて見えなかったのは、同じだったのだ。僕も、悠も。延々と遠回りな愚劇を演じ続けてきたのは僕だけではなかった。どこにも責任はない。しかし、いたるところに責任は存在している。

 僕と彼女が共にすごした20幾年の間に、僕たちは数えきれない責任を背負っていたのだ。あまりに普通ののことだった。だから、失うまで気づけなかった。よくあることだ。だが僕達は、失って帰ってこないものまで求めてしまった。そして、いまあるものまで壊してしまった。


 これが僕達の初恋の結末だ。


 決して許されることのない罪を抱えてしまった二人。一生抱え続けていかなくてはならないという罰を背負った二人。電車を降りたら、僕達はもう二度と会うことはないだろう。この思いも寄らない一泊二日は、愚かすぎる僕達の20年間をあざ笑うかのように白紙に変えてしまった。

 鈍く光る鋼のように重たい雲が僕達の頭上を通り過ぎていく。

 かつての思い出の地を後にした電車は、その速度を緩めることなく僕らの街へと向かっていった。


<了>

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