硝子細工の箱庭を出て
王宮の夜会、きらびやかなシャンデリアの光の下で、私の世界は静かに音を立てて割れた。
「リリア、君との婚約を破棄させてもらう。僕の隣にふさわしいのは、君のような地味で退屈な『灰色の女』じゃない。彼女のように、世界を鮮やかに彩る大輪の薔薇だ」
婚約者であったエリオット公爵令息の声は、広い広間に響き渡った。
彼の腕に絡みついているのは、燃えるような緋色のドレスを纏った男爵令嬢。
周囲の貴族たちは、私を憐れむように、あるいは冷笑を浮かべて見つめている。
けれど、私の心は驚くほど凪いでいた。
彼のために夜を徹して領地の財政を組み替え、彼の無能さを隠すために私の魔力を注ぎ込み続けた5年間。
私のドレスがいつも色褪せた「灰色」だったのは、彼が見栄のために私の予算まで使い込んでいたからだということに、彼は気づきもしない。
「分かりました、エリオット様。あなたの望む通りに」
私は深く頭を垂れ、その場を後にした。
背後でエリオットが「最後まで可愛げのない女だ」と吐き捨てるのが聞こえたけれど、もうどうでもよかった。
私が彼の「箱庭」に残してあげた魔法の残滓が消えるまで、あと数ヶ月もないのだから。
それから2年。
エリオットの領地は、文字通り「色」を失っていた。
リリアという最高の管理者を失ったことで、領地の財政はまたたく間に破綻。
さらに、彼女が人知れず領地に張り巡らせていた「大地の結界」が消滅したため、作物は枯れ果て、かつて豊かだった土地は見る影もなく荒廃した。
贅沢の限りを尽くしていた緋色の令嬢は、借金を抱えたエリオットをあっさりと捨てて、別の男の元へ去っていった。
「どうして……どこで狂ったんだ……!」
すっかり仕立ての古びた上着をまとい、エリオットは隣国の美しい保養都市の街道を歩いていた。
飢えをしのぐため、この地で莫大な富を築いたという「新興の魔導具商」に、頭を下げて融資を乞うためだ。
目的の邸宅へ続く、黄金色の光が降り注ぐ並木道。
そこでエリオットは、息をのむような光景を目にした。
「リリア……?」
かすれた声が、彼の喉から漏れる。
そこにいたのは、かつて彼が「灰色の女」と蔑んだ、元婚約者だった。
しかし、いまの彼女は違った。
身に纏うのは、最高級のシルクで仕立てられた、目の覚めるような純白と淡いゴールドのドレス。
その肌は抜けるように白く、かつて見たこともないほど穏やかで、幸福に満ちた笑みを浮かべている。
彼女の隣には、この国の若き最高権力者である公爵が寄り添っていた。
彼は、リリアを見る目をこれ以上ないほど甘く細め、彼女の細い指先にそっと口づけを落としている。
リリアの持つ天才的な経営手腕と、大地を癒やす魔力。
隣国は彼女を「奇跡の聖女」として熱烈に迎え入れ、彼女もまた、自分を心から愛し、尊重してくれる本物のパートナーを見つけたのだ。
「リリア! リリア、僕だ!」
エリオットはなりふり構わず、光に満ちた庭園へと駆け出そうとした。
もう一度彼女の手を掴めば、あの輝かしい栄光の日々に戻れるかもしれない。その卑しい希望だけが彼を動かしていた。
しかし、彼の身体は、目に見えない強固な結界に阻まれて、庭園の入り口で無様に転倒した。
騒ぎに気づいたリリアが、静かに視線を巡らせる。
エリオットは、泥にまみれた顔を上げ、救いを求めるように彼女を見つめた。
「リリア、僕が悪かった! 戻ってきてくれ、君が必要なんだ……!」
だが、リリアの澄んだ、アメジストのような瞳に映ったのは、怒りでも拒絶でもなかった。
それは、道端に転がる乾いた石ころを見るような、完全なる無関心。
「まあ……珍しいこともあるのですね。あんなところに、ずいぶんとみすぼらしい迷い人が」
彼女は鈴を転がすような声で、隣の公爵に微笑みかけた。
エリオットという存在が、彼女の記憶の片隅にすら残っていないかのように、その視線は彼をただ透過していく。
「放っておきなさい、我が愛しい人。君の美しい目を、あのような泥で汚す必要はない」
公爵は優しく彼女の肩を抱き寄せ、邸宅の奥へと歩き出す。
リリアはもう二度と振り返ることはなかった。
「あ、ああ……リリア……!」
黄金の光が満ちる美しい庭園の向こうへ、彼女は消えていく。
残されたエリオットの頭上には、いつの間にか、彼の心を映したような冷たい灰色の雨が、音もなく降り始めていた。
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