第七章「君が為ーあの日の音ー」
「鈴花、また明日ね」
葵の優しい笑顔を、沈みかけた夕陽がそっと包み込んでいた。
鈴花は、その伸びていく影が小さく見えなくなるまで目で追った。
葵の姿が完全に消えた瞬間、胸の奥がきしりと音もなく軋む。
私が側で守るから——。
幼い頃に交わしたたったひとつの約束。
そして同時に、ずっと分かっていたこと。
いつか葵には、私以外の誰かが寄り添う日が来る——。
目を落とすと、夕陽に照らされた自分の影が揺れていた。
ほんのわずかな揺れなのに、
胸の奥で不安が静かに渦を巻き始める。
その渦は、やがて風に乗ってシンの元へ届き始めた。
シンは軽く息を吐き、胸の内側を静かに落ち着けていく。
ガチャ──。
玄関が開く音と同時に、青葉の気配が流れ込んでくる。
「今日こそ、代行に戻るんだ──」
この数日、青葉はただシンの隣で“見ていること”しかできなかった。
階段を駆け上がる足音に、シンは目を細め口元を緩める。
勢いよく扉が開いた。
「シン! ただいま」
鞄を握る手には力が入り、口は一文字。
その瞳はまっすぐに、まるでシンだけを射抜くようだった。
そんな青葉を見て、シンは柔らかく微笑む。
「青葉、気合いは悪くない。……だが、そんなに力まなくてもいい」
その声に、青葉の肩からふっと力が抜ける。
抱えていた鞄が、するりと床へ落ちた。
「あ……あのね、シン。私──」
「おかえり。また、よろしく頼む」
いつものように心を読まれ、青葉の表情にそっと笑みが戻る。
その笑顔に、シンは胸の奥が温かく灯るのを感じた。
青葉の復帰が、彼自身の“備え”を静かに整えていく。
静かな空気がふたりの間にふわりと落ちた。
──ピロン。
突然の着信に、肩が跳ねた。
ポケットからスマホを取り出すと、相手は父だった。
「あっ……」
鈴花は慌てて家へ入り、急いで着替えを済ませる。
ふと視界の隅でカレンダーが目に入った。今日の日付には、小さなサッカーボールのシール。
こんな大事な日を忘れていたなんて……。
鍵をつかみ、自転車を引き起こすと、足早に父の職場へ向かった。
「こんばんは、今井コーチ」
「いらっしゃい、真央さん」
事務所の横に広がる練習場から、子どもたちの明るい声が響いてくる。
「今日もみんな元気ですね」
真央はグラウンドを眺め、わずかに微笑んだ。
今井の表情には、どこか懐かしさの滲む影が差していた。
「もう、あれから……十年経つんですね」
真央は真っ直ぐな視線を子どもたちへ向けたまま、そっと頷く。
「不思議です。十年経っても、ここへ来ると……まだ理人が練習しているような気がして」
今井は湯気の立つお茶を静かに机へ置いた。
「理人くんは、頑張り屋で……優しいのに芯が強い子で。
鈴花が練習サボった時、すごく怒っていてね。本当に驚きましたよ」
真央は目を細めると、懐かしさを噛みしめるようにお茶を口へ運んだ。
「鈴花ちゃんも、もう高校生ですか。久しぶりに会いたいですね」
「あ、それなら——」
今井が言いかけたそのとき、
事務所の扉が勢いよく開いた。
花束を抱えた鈴花が駆け込んでくる。
その顔を見て、真央は小さく目を丸くした。
鈴花は花束を大切に父へ手渡すと、真央の姿に気づき、驚いたように息を呑む。
「え……理人くんの——」
言葉が詰まった鈴花に、真央は柔らかく微笑んだ。
「久しぶりね。やっぱり鈴花ちゃんだったのね。もうすっかりお姉さんだわ」
数年ぶりの再会。
練習場から聞こえる声とボールの音が、あの日の記憶を静かに呼び起こす——。
鈴花は幼い頃から、父が経営するサッカークラブに通っていた。
走るたびに揺れる自分の小さな影を見て、もっと強くなりたいと願った。
全ては、葵を守るため。
何かあればすぐ駆け寄って、おぶって走れるように。
——そのために、自信が欲しかった。
けれどある日、ふと練習が嫌になった。
どれだけ頑張っても、葵を守れる気がしなかった。
積もるのは、小ささと弱さばかり。
父は何も言わず、そっと頭に手を置いた。
「休みたい日もあるさ」
そんな無言の声が聞こえる気がした。
——ガチャ。
扉が開き、理人が駆け込んできた。
息を切らし、額には汗。
「何サボってるんだよ。やる気がないなら帰れ。
頑張ってる人に失礼だろ」
あの理人がこんな声を──。
鈴花は俯いたまま動けなかった。
しかし理人は短く息を整えると、声を落とした。
「……俺さ。鈴花のパスがないと、うまくシュート決められないんだ」
鈴花は思わず顔を上げた。
「どんなボールでも必ず届けようとするだろ?
あれがあるから……俺も頑張れるんだよ」
胸の奥に、小さな光が灯った。
“役に立てる”と思えたのは、あの瞬間が初めてだった。
鈴花は勢いよく立ち上がり、靴を履いて走り出した。
理人へと送った、あの小さなパス。
返ってきたのは、まっすぐ向けられた笑顔。
その眩しさは、今も色褪せない。
——ピピーッ!
子どもたちの歓声。
その音に、鈴花の意識は現実に戻った。
「……すごく、理人くんに会いたいです」
溢れた涙が頬を伝う。
自信をなくしそうな私に──もう一度、あの頃みたいな勇気をくれたら。
真央はそっと鈴花を抱き寄せた。
気づけば夕陽は消え、空には星が瞬き始めている。
練習を終えた子どもたちの笑い声が、鈴花と真央の胸を静かに締めつけた。
あの日と同じように、夜がゆっくりと降りてくる。
車のエンジン音が遠くで響いていた。




