第七章「君が為ーそれでもー」
エンジン音がそっと鳴り止み、病院の脇へ真央は車を停めた。
「お待たせ。着いたわよ」
葵と和真は礼を伝え、車を降りた。
真央の車を見送ると、葵はふっと笑った。
「真央さんって優しい人だね。あんなお姉さんがいたら楽しそう」
「うん⋯でも、強引なとこもあるけどね」
二人は顔を見合わせ、小さく笑い合う。
だが、その笑みは和真の顔からすっと消えていった。
「じゃあ、俺はここで⋯ちょっと用事あるから」
「え⋯?」
葵は、和真の優しい瞳の奥にふっと落ちる影を感じた。
そして何故か、それ以上踏み込んではいけない気がした。
「じゃあ葵、気をつけて。また⋯」
軽く手を振って、和真は早足に病院の入り口へ向かっていった。
「⋯⋯あ」
葵は手を振ることさえ出来ず、ただ立ち尽くした。
優しい和真が見せた、あの切ない横顔。
理由が知りたい。
力になりたい。
でもあの瞳は、どこかで「来ないで」と拒んでいるようだった。
胸の隅がきゅっと締め付けられる。
その時――背後から穏やかな声がした。
「あれ? 葵ちゃん。今日はどうしたの?」
振り返ると、担当医師の小泉が優しい笑みを浮かべて立っていた。
「あ、先生。こんにちは。今日は知り合いの方にここまで送ってもらって⋯」
「そうなんだ」
小泉は、いつもの葵の笑顔にはない、ほんのわずかな陰りを感じ取った。
「最近はどう? 体調は問題ないかな?」
「あ、はい。ちょっとした怪我はしちゃいますけど⋯大丈夫です」
幼い頃から見守ってきた小泉の穏やかな表情が、葵の胸にすっと沁みていった。
病院の入口で立ち止まった和真は、軽く頭を掻いた。
――さっきの言い方、ちょっと冷たかったよな。
気がつけば葵の方へ引き返していた。
少し先から、風に乗って葵の笑い声が届く。
「あお――」
呼びかけかけて、慌てて柱の影へ身を隠す。
「これ、新しく買った絆創膏です。大きめのサイズもあるし、怪我しても平気です。私にとってはお守り⋯みたいな」
葵が医師と話す様子を、和真は陰からじっと見ていた。
「ふふっ、いいお守りだね。来月また血液検査があるから、ちゃんと来るんだよ」
「はい」
小泉は病院の中へ戻り、葵は絆創膏をポケットに入れて歩き出す。
その背中を見た瞬間――
胸の奥で、何かが静かに軋んだ。
血液検査。
絆創膏。
屋上で滲んだ血。
青ざめていった葵の顔。
鈴花の慌てた声。
ばらばらの記憶が一つにつながった瞬間、和真の胸がすうっと冷えた。
呼吸が浅くなり、膝が笑う。
その場にしゃがみ込むと、世界がぐらりと揺れた。
噛みしめた唇が痛み、血が滲む。
それを見たとき、和真は自分の無力さを突きつけられたようで、思わず目を伏せた。
――葵は、きっとずっと悩んでいたんだろう⋯。
なのに俺は、あの時“話を聞く”なんて軽く言って。
勝手に聞き出そうとして――。
拳にぎゅっと力が入る。
情けない自分が、心底嫌だった。
翌日から和真は、葵に対してあからさまに気を遣うようになった。
荷物を持とうとすればすぐ手を伸ばし、
体育では常に葵を視界に入れ、
歩く速度まで自然と合わせてしまう。
太陽が眩しく照りつける午後。
「和真、最近変じゃない?」
昼休み、屋上で弁当を広げながら葵が首をかしげた。
鈴花は答えに詰まり、曖昧に笑っただけだった。
その時――。
屋上の扉が勢いよく開き、駆け寄る足音が近づく。
「葵。これ」
和真が差し出したのは、パックのアサイージュース。
「え? アサイー⋯?」
真剣な表情の和真に、葵はますます戸惑う。
「良かったら、飲んで」
「⋯⋯あ、ありがとう」
受け取った葵に、和真はやっとほっとした顔を見せた。
ほんの少しでいい。
ほんの少しでも葵の役に立ちたい。
和真は缶コーヒーを勢いよく開け、そのまま一気に飲み干した。
ゲホッ、ゲホッ!
「ほら! 一気に飲むからだよ〜」
葵は慌ててティッシュを差し出す。
和真のせき込みを見て、葵の表情がふっと緩む。
その自然な笑顔に、本人は気づいていなかった。
鈴花は、その光景をただ見つめていた。
笑おうとするたび、胸のどこかがきしむ。
それは嫉妬よりももっと深い、
何かを失いそうな、形のない痛みだった。
――もし葵が、もう自分を必要としなくなったら。
私は、葵のそばに何を残せるんだろう。
二人の笑い声。
ふたつの影が寄り添うみたいに重なる。
胸のざわつきを誤魔化すように、鈴花はそっと愛想笑いを浮かべた。
風もない穏やかな午後の陽だまりが、ただ眩しくて仕方なかったーー




