第七章「君が為ーありのままー」
廊下のざわめきとは裏腹に、トイレへ足を踏み入れた途端、世界が静けさに沈んだ。
治まることを拒むように、激しい鼓動が鈴花の胸を揺さぶる。
ゆっくりと息を吸い、吐く。
──それでも落ち着かない。
腹の底で渦が巻く。
怒り──? いや、嫉妬……?
……違う。
嫉妬なんかじゃない。
ただ、葵がどこかへ行ってしまいそうで怖いだけ。
また指先が震え始める。
一瞬、隣で笑っていた葵の顔が胸をかすめた。
――今まで一番近くで、ずっと守り抜いてきたのは私なのに。
なのに──。
鏡越しに映った自分の表情を見た瞬間、喉がぎゅっと詰まった。
自分の“満たされなさ”が胸を刺す。
気づけば蛇口をひねり、冷たい水で何度も顔を洗っていた。
頬を伝う水滴の中に、微かな温もりを含んだ涙が混じる。ただ零れ落ちていくそれに、縋るように目を閉じた。
そして――本当に落としたかったのは、ひとつだけ。
胸の奥にしつこく貼りついた“黒い気持ち”だった。
「もうお腹の調子は良くなった?」
葵が心配そうに覗き込む。
「あ……うん。心配かけてごめんね」
保健室で落ち着きを取り戻した鈴花は、安心させるように微笑んだ。
「ごめんね。今日は委員会だから一緒に帰れなくて」
葵は小さく首を振る。
「そんなことより、あんまり無理しないでね」
いつもなら嬉しい葵の優しさが、今日は胸の奥で鈍く痛む。
葵を見送り、鈴花は椅子に身を預けた。
窓へと視線を移すと、重い息がこぼれる。
昼間の太陽は雲に隠れ、夕陽の色だけが霞んでいた。
葵は靴を履き替え、ゆっくりと校門をくぐる。
少し先に白いポルシェ。
女性の声──そして、見覚えのある後ろ姿。
「和真?」
肩がわずかに跳ね、和真が振り返る。
「あ、葵」
昼間のことが二人の脳裏をよぎった。
言葉が、少しだけ出てこない。
そんな二人を見て、真央はいたずらっぽく微笑んだ。
葵は慌てて真央の方へ向き、深く頭を下げて言った。
「和真くんとは、良いお友達をさせてもらってます」
その瞬間、和真も真央も思わず吹き出した。
葵の視線が左右に揺れる。
「ふふ、ごめんなさい。可愛らしくて」
真央は葵に歩み寄り、柔らな表情を向けた。
「私は和真の……そうね、親戚みたいなものよ。真央です。よろしくね、葵ちゃん」
「よろしくお願いします……」
頬を赤らめる葵を見て、和真は自然と笑みをこぼした。
その表情を見て、真央はただ嬉しかった。
「葵ちゃん、お詫びに送るわ。乗って」
「え、でも私──」
有無を言わせず手を引かれ、葵は思わず和真を見た。
“ごめん”とでも言うように、和真は苦笑する。
二人は目が合うと、ふっと柔らかい笑みを交わした。
「松葉総合病院の方に向かう予定なんだけど、葵ちゃんは?」
「同じ方面です。少し先のスーパー三崎の近くなので……病院で降ろしてもらえれば」
「じゃあそこまでね」
真央は鼻歌交じりにアクセルを踏む。
時々ミラー越しに二人を見ては、胸の奥にそっと幸せが灯った。
葵は昼間のハンカチを思い出し、和真へそっと視線を向けると、自然と目が合った。
葵はポケットからハンカチを取り出す。
「……洗濯して返すね」
和真は慌てて手を振った。
「いやいや、そのままで大丈夫だから」
「え、ダメだよ。ちゃんと洗って──」
「いや、本当に大したものじゃないし、そのままで」
「えっ、でも……」
見ていられなくなった真央は、涙を浮かべて笑い出した。
「本当に、気が合うのね」
夕陽が雲間から顔を出し、二人の頬を淡く染める。静かな車内に、柔らかな空気が満ちていく。
その中で真央は、またあの日の光景を思い出していた。
──もうずっと前の、バレンタインデー。
「理人くん!これ……」
練習後、サッカー仲間の女の子が差し出したチョコ。
「え、なんで……!?」
「昨日作ったの……よかったら、食べて」
「え、でも……その……」
受け取り方も分からず赤面する二人。
たまらず、真央は声をかけた。
「理人!ちゃんとお礼言ってあげなさい」
理人は小さく頷き、照れた声で「ありがとう」と言った。
──あの影が、ふっと胸の奥で揺れる。
理人の面影がそっと和真へと重なり、真央の瞳に切なさが滲んだ。
夕陽はゆっくりと雲の中へ沈んでいった。




